古代日本人の歌は、叙景詩であり、言祝ぎ歌であり、家を誉め、土地を誉め、もの言わぬ神々に言問いをすることで、神々のなかの主神の一柱である一言主神からの「一言の答え」を待っていた。
それは、古代の日本人が、今の一年を二歳とみなし、季節の変わり目ごとに、神々に言問うことが祭であった。
古代の人々の心持ちや振る舞いは、山里の旧家に息づいている。
山形県東置賜郡川西町にある旧玉庭村で行われている旧暦の雛祭りは、江戸時代から伝来する雛人形の脇に、子どもたちの着物を並べて描け、雛人形の正面には、日露戦争当時の彩色絵はがきや、当時の東京の風景絵はがきなど剥ぎ混ぜた屏風が立てられている。
川西町玉庭で(2013年3月24日)
これは、古代の「袖振り」の名残りであり、中国や朝鮮で行われた「招魂」であったのだ。
以前から不思議に思ってはいたのだが、日本における招魂社と護国神社は、別々の系統の神社であるようだ。
半藤一利の『歴史をあるく、文学をゆく』(文春文庫・2004)に、その郷里の越後長岡の招魂社には、明治政府の逆賊たる奥羽越列藩同盟の烈士たちが祭られているとある。
中国・朝鮮・日本とも、東アジアのモンスーン地帯に位置し、稲作の可・不可で、一年を二期に分けてきた。
稲作がこの地域の歴史を律してきたのであり、太陰暦をもとにした農暦が基本の暦であった。
このような歴史をも顧みることもなく、日本は、誤った外交認識と、謝った安保防衛政策を選ぼうとしていえる。
私たちは、もう一度、国の本義に立ち返り、先祖の心をも顧みるべきであろう。
2015年 お盆の日に
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