サザンオールスターズ 9th album
『Southern All Stars』
('90.1.13)



《初回限定盤》
3週連続1位
年間チャート6位

《通常盤》
週間2位
年間チャート14位

※CDにほぼ移行、黎明期でタイプ別に集計していた
オリコン集計でCD初のミリオンを達成

初回盤70.7万枚
通常盤48.2万枚
合計118.9万枚




M1.フリフリ'65
M2.愛は花のように (Ole!)
M3.悪魔の恋
M4.忘れられたBig Wave
M5.YOU
M6.ナチカサヌ恋歌
M7.OH,GIRL(悲しい胸のスクリーン)



M8.女神達への情歌(報道されないY型の彼方へ)
M9.政治家
M10.MARIKO
M11.さよならベイビー
M12.GORILLA
M13.逢いたくなった時に君はここにいない





 原由子の産休とモンスター・アルバム『KAMAKURA』発表をもって、サザンの各メンバーはソロ活動に入った。サザン再始動アルバムの発売は結局5年後となった(サザン第1次復活)。




 こうして発表された9枚目と10枚目のアルバムはセットでとらえるべきで、桑田佳祐の初映画監督作品『稲村ジェーン』へと結実してゆく。



 山下達郎式のドゥーワップとコーラスを完成させた時期で、これ以降サザンならびに桑田は、アルバム毎にテーマを明確に打ち出し、第4期=<メガヒットの時代>に突入する。


 この第3期最大の特徴は、サザン・松任谷由実・山下達郎・佐野元春・鈴木雅之らが権勢を誇る中、久保田利伸・BOФWY・B'z ・槇原敬之が頭角を現わし、レベッカ・渡辺美里・チェッカーズらが人気を集め、ユニコーン・ブルーハーツらの活躍が、空前のバンドブームの引き金となったことである。


 やがて音楽ジャンルが細分化することで純粋なロックが希薄化する中、Mr.ChildrenやLOVE PSYCHEDELICO(さらに2020年代の今日はGLIM SPANKY(グリムスパンキー)や、神サイこと「神はサイコロを振らない」)をのぞいて、ポップスとブルースとロックをまたぐaiko、そして宇多田ヒカル、椎名林檎、MISIA、安室奈美恵らのR&B系アーティストが台頭することとなる。





【桑田のプロデューサー化

──KUWATA BAND⇒桑田ソロ】





【86年】

 86年はまずベーシストのムクちゃんこと関口和之がソロアルバム『砂金』を2月5日に発売。クオリティーが高く多幸感たっぷりの良盤だ。




 続いて、4月5日、パーカッショニストの毛ガニこと野沢秀行

がソロ・プロジェクト・アルバム

Japanese Electric Foundatio』を発売。桜井鉄太郎・六川正彦と共に斬新でスタイリッシュな作品を完成させた。



 さらに、11月5日には当時ギタリストだった大森隆志がTABO'S PROJECTを結成し矢島賢とアルバム『EYES OF A CHILD』をリリースした。



 桑田佳祐はドラムの松田弘と共に、今野多久郎をリーダーとしてKUWATA BANDを結成し、骨太なロック・バンドを選んだ。






シングル

①4月5日
BAN BAN BAN

週間3位・年間4位(45.1万枚)

ベストテン5週連続1位・年間1位

⇒エヴァグリーンなロック。





②7月5日(③と同時発売)
スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)

週間1位・年間8位(35.1万枚)

ベストテン6週連続1位、年間8位

サザンでも成しえなかった初のオリコンシングルチャート週間1位。年間シングルベストテンには①とともに2曲入った。
和製ファンク・ロックの最高傑作





③7月5日(②と同時発売)
MERRY X'MAS IN SUMMER

週間3位・年間15位(31.4万枚)

ベストテン3位

⇒夏のクリスマスソング。レゲエ風味のビートロック





④11月5日発売
ONE DAY

週間1位

ベストテン6位

⇒クワタ・バンドのラストシングル
深遠でせつないロッカ・バラードの傑作
2度目の週間シングル1位





この只中で、KUWATA BANDは、7月14日、最初で最後のオリジナル・アルバム

『NIPPON NO ROCK BAND』

をリリースした。

シングル曲収録なし・全編英語詞のアルバムは大論争になった。しかし、楽曲一曲一曲は骨太で凄みのある作品だった。

結果的に英詞不要論をものの見事に粉砕し、『NIPPON NO ROCK BAND』は

4週連続1位

86年年間2位(78.4万枚)

をかっさらうモンスター・アルバムとなった。





彼らのツアー

KUWATA BAND ROCK CONCERT

は、2回目のツアー

KUWATA BAND FINAL ~ぼくら1987

と共に、伝説のライブとなった。英語詞が9割であることを感じさせないエネルギッシュで爆発的なROCKコンサートだった。10月11日、NHKホール公演のダブル・アンコールで、9分にも及ぶ『ヘイ・ジュード』が披露され、感動の内に幕が降りた。
その直前の8日9日、渋谷公会堂で行われたライブ(ディープ・パープル『スモーク・オン・ザ・ウォーター』からザ・ビートルズ『ヘイ・ジュード』のカバーまで全24曲)は、メガトン級のインパクトをもたらし、2枚組ライブ盤CDとして発売された。本作

『ROCK CONCERT』

は週間1位(36・1万枚)を奪取した。




 KUWATA BAND は、この年、そうそうたるアーティストが結集した

日テレ系クリスマスTV特番

MERRY X'MAS SHOW '86

にメイン出演。翌年87年12月24日にも一日だけ再結成し、『MERRY X'MAS SHOW '87』にメイン出演した。


 言うまでもなく、当時、吉川晃司に声をかけられ、番組を全てお膳立てしたのは桑田佳祐であった。

 この時期の桑田佳祐は内心、絶対的な自信にあふれていた。山下達郎に感化され、冷静さを取り戻し、人気に見合った人格者と目されるようになったのは90年代半ば頃だった。

 けれども、この数年は、桑田佳祐が当時30歳で、日本ROCK界の頂点に君臨し、最もエネルギッシュでギラギラしていた時期でもあった。






【87年】


 2月9日の日本武道館で KUWATA BANDをたたんだ桑田佳祐は、5月にニューヨークに渡る。


 ダリル・ホール&ジョン・オーツとレコーディングを行い、彼らの日本公演に単独出演を果たした。

 だが、この只中で、海外進出を目指していたにもかかわらず、逆にクワタ・バンドの経験およびホール&オーツとのギグが、桑田を急速に現実へ引き戻した。



言葉と音楽の壁が異様に高いこともさることながら、桑田は海外進出に堅苦しさを感じたのではないだろうか。


日本に生まれ日本語でポピュラー・ミュージックを極め、リスナーに発信してゆくことの奥深さとでも言うべきか。快感と言うべきか。やっぱり俺は、日本人に根差した音楽をやろう!、と。


 そこで初めて桑田佳祐は自分の音楽的ルーツが、実はアフリカにもアメリカにもなかったことを発見する。


当然、自分の原体験をふり返らざるを得なかった。すると、シンボリックにロックと息巻くことの居心地の悪さに気づかざるを得なかった。

『ロックの子』にはROCKもまた一つの世界に過ぎなかった。

ついに桑田はすべての音楽ジャンルが大衆音楽としてのポピュラー・ミュージックであることを発見した。



そこで、「ロックもすべてポップス」と、180度前言をひるがえす発言となったのだろう。

ビートルズもディランも美空ひばりも前川清もポップスだ、と。


歌謡曲も洋楽も、ロックも流行歌も、その時代を彩ると共に名曲は永遠に大衆の記憶に残る、そして人びとの人生に灯りをともす。日本人にしか味わえない、究極の大衆音楽を求めようじゃないか!、と。


つまり、桑田が言いたかったのは<ポピュラー・ミュージック>としてのポップスだったのだ。デビュー9年にして桑田はすでに悟ってしまった。


この信念は今日まで一貫している。

 しかし、まだこの時期の桑田は純粋なアーティスト性と言うより、プロデューサー目線から戦術的にポップスを推しだす側面を、なお残していたと言えなくもない。

したがって、自分の原体験に根ざした音楽映画をつくって当てる、という夢に向かって突き進むのである。





 なお、6月21日にはサザンの企画ベスト盤パート2

BALLAD 2 '83~'86

を発売し、1位(25.7万枚)を獲得。





 続く、8月21日、原由子が産休後の復帰作

あじさいのうた

を発売。

 富田靖子主演・市川準監督の映画『BU・SU』のテーマ曲として、一世を風靡した。原由子が作詞・作曲した4年ぶりのシングルは、彼女が母なるソロ・シンガーにふさわしい音楽スタイルを確立した、記念碑的作品となった。




 さらに、10月6日、桑田佳祐名義でソロ1stシングル

『悲しい気持ち(JUST A MAN IN LOVE)』

をリリース(C/Wはホール&オーツが参加した『LADY LUCK』)。
桑田佳祐が藤井丈司に加え、ついに小林武史とタッグを組んだ。要するに、個性がぶつかりあって激論しながら楽曲制作が行われるようになる。

週間2位15.9万枚。翌年18.8万枚、足かけ2年で累計34.7万枚に達した。






【88年】


 本格的にソロアルバムのレコーディングに突入すると、翌年88年3月16日には2ndシングル

いつか何処かで(I FEEL THE ECHO)

をリリースし2位(26.4万枚)を獲得した(C/Wはホール&オーツとの『SHE'S A BIG TEASER)。



こうして、7月9日には自画像があしらわれた桑田佳祐名義での最初のソロアルバム

『Keisuke Kuwata』

を発表(2週連続1位、年間6位64万枚!)。

日本ポピュラー音楽の歴史をひもとくこの名盤は、桑田佳祐のその後のキャリアに影響をもたらす重要な一枚となった。




なお、トラック9の

遠い街角(The wanderin' street)

には竹内まりやがコーラスで参加

 これに対して、10月19日に発表された山下達郎9枚目のアルバム

『僕の中の少年』収録の名曲『蒼氓』には、

妻・竹内まりやに加えて、桑田佳祐・原由子夫妻がコーラスで参加している。





また、原由子も7枚目のソロシングル

ガール(GIRL)

をリリースした。





 ところで、サザンがデビュー10周年を迎えるということで、急ピッチで準備が進められた。桑田1stソロアルバム発売直前の6月25日デビュー記念日、24thシングル

『みんなのうた』

を発売(週間2位、ベストテン3位。年間12位30.2万枚)。
(C/Wは『おいしいね~傑作物語』。2015年のツアーでは大喝采された)。




間髪入れず、7月26日から

サザンオールスターズ -真夏の夜の夢-1988 大復活祭

なるタイトルを冠したツアーに出た。

西武球場・大阪球場・横浜スタジアム各3デイズを含み全20公演50万人を動員する過去最大のツアーとなった。






【89年】

 88年末よりサザンオールスターズはアルバム制作に入るが、完成は90年1月となった。89年は主要にサザンと原のシングルリリースが軸となる。



原由子は自作の楽曲が『ひらけ! ポンキッキ』やCMにどんどん起用された。4月26日に

かいじゅうのうた』、

5月21日に

ためいきのベルが鳴るとき

など母性愛にあふれた作品をたて続けに発表し、魅力的な女性シンガーとして社会的名声を得た。





 7月21日には、サザンデビュー10周年を記念するCD4枚組のベスト盤が予約限定生産された。


通称“すいか”こと

『すいか SOUTHERN ALL STARS SPECIAL 61 SONGS』

は、限定30万枚を予定していたが予約が殺到し50万セット限定発売に変更された(初登場1位)。現在も1万円以上する高額CDの最高売上となっている。





 そして、この年サザンはデビュー11周年イヤー直後、ロック・バンドとしての金字塔を樹ち立てた。



6月21日に発売された

『さよならベイビー』

でついにサザン初のオリコンシングル週間チャート1位を獲得したのである(桑田と松田は KUWATA BANDで2度獲得)。


以下、見てゆく。



4月12日

女神達への情歌(報道されないY型(ケイ)の彼方へ)
週間4位(9.9万枚)




6月27日

さよならベイビー
週間1位(サザンデビュー以来初。24.4万枚)


※以前に週間最高2位は
『いとしのエリー』
『C調言葉に御用心』
『チャコの海岸物語』
『メロディ(Melody)』
『みんなのうた』
の5作だった。





11月21日

フリフリ'65
週間2位(16.7万枚)






『さよならベイビー』は織田裕二と原田知世が主演した映画『彼女が水着に着がえたら』の主題歌だった。映画は6月10日に公開されたが、シングルは25日のサザン11周年直後、6月27日にリリースされた。







 この年ラストは5年ぶり2度目の年越しライブで幕を閉じた。


『いっちゃえ'89 サザンde'90 (年越しコンサート)』


は民放TVで全国生中継された。そして、この年からサザンが年越しライブを行う会場は、横浜アリーナが慣例となった。この年越しライブ89では、5年ぶりのニュー・アルバム収録曲が先行披露された。





②へ続く。










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