「数え立てればきりがないが、私たちは要するにどこを向いても厚い壁にかこまれており、この壁をぶち破らなくては、すべての人間らしい投企は不可能なのだ。政治もそうなら職業の選択もまたそうであり、学問もそうなら結婚もまたそうである。この人間の自己疎外が極端化した現代にあっては、※※どのような分野においてでも革命的であること以外には断じて真実はあり得ない。」
※※以下は全文傍点。1955年頃処女作あとがきより。
 (竹内芳郎著『サルトル哲学序説』筑摩書房 筑摩厳書193版 335頁 絶版
『竹内芳郎著作集【第1巻】』閏月社 255頁 2021年9月1日 初版第1刷発行)

▲結論は……(笑)








 1978年6月25日にサザンオールスターズがデビューして今年で45周年を迎える。


 「ダミ声、速射砲のようなヴォーカルで何を唄っているかまるで分からない」、「大学音研サークル上がりのノリで、コメディアンのようなトーク」、「イロモノでコミックソングの一発屋」……これはデビュー当時、彗星のごとく現れ、お茶の間から火がついたサザンについての、大方の老若男女の見方だった。


 それもそのはず、当時の歌謡界と言えば、演歌とグループサウンズとフォークグループの中から、やっと沢田研二やピンク・レディーが出てきたばかり。ロックと言われるのはCAROL(キャロル)出身の矢沢永吉くらいだった。解散したはっぴいえんどとシュガー・ベイブも、まだマニア向けだった。したがって、いわゆる洋楽の影響下にある《ロックバンド》や《ミュージシャン》の地位は、驚くことなかれ、紅白歌合戦とレコード大賞に象徴される歌謡界の中で、一部のマニア向けと侮蔑され、最下層の下僕の地位に甘んじていたのである。

 すなわち、当時「ロックバンド」とは、2023年現在における特定のファン向けの「アイドルグループ」「ロックバンド」と同義の、白眼視され異端視された存在でしかなかった。これが当時の歌謡界・芸能界の偽らざる社会的現実であった。この否定的な現実を根底からひっくり返し・大衆性を獲得し・世間から認められることなしに、まずもって「ロックバンド」が、一定の社会的評価を獲得するどころか、多少なりとも知名度を得ることも、いやいや、そもそも〈存在する余地すら、許されなかった〉のだ。


 1978年当時デビューした《世良公則&ツイスト》と《サザンオールスターズ》は、現実的に日本で初めてロックをメジャーに押し上げたロックバンドとなった。が、前者のツイストはのちにニューミュージックと規定されるようなグループサウンズ以降ポッと出た歌謡バンドとして、後者のサザンはサザンロックや70年代ブルースロックが大学音研サークルやマニアくらいにしか普及されていない状況下単なるコミックバンドとして、マスメディアに扱われたに過ぎなかった。

 したがって、歌謡界における反保守の異邦人とみなされ孤軍奮闘する両者が、しばらくの間、相互浸透していたことは想像に固くない。
 一見きらびやかながらその実、閉塞感に包まれた音楽後進国・日本歌謡界で、演歌とフォークソングと歌謡曲(アイドル含む)の牙城にロックは太刀打ち出来るのか?、いやなんとか時代の流れを変えようじゃないか!、と彼らは直観的に意気投合した。だが、ミュージシャンの立場が逆転し、歌謡界のトップに君臨するのは、ここから10年の時を要したのである。そして、実のところ、二十代そこそこだったサザンメンバーのデビュー当時の本心は、「いつまで持つか……」明日をも知れぬ青春期の思い出づくりと重ね合わされていたこともまた、紛れもない事実であった。



 ともあれ、茨の道を歩みロックバンドの道を切り拓き・のちに雨後のタケノコのように出現した数々のバンドが栄華必衰を繰り返す中・ミュージシャンの社会的地位を頂点におしあげたサザンオールスターズは、1978年のデビューイヤーは単なる“一発屋のコミックバンド”としてマスコミから揶揄されていたに過ぎなかった。




 実際、デビューシングル『勝手にシンドバッド』は、サザンの知人・関係者以外誰も知る由もなく、オリコン調べで初登場 132位……。




 デビュー日=発売日当日、メンバーは、今日一般的な握手会イベントやフリーライブはおろか、そもそも仕事もなし。ステマどころかスマホもパソコンもTwitterやInstagramやTikTokに代表されるSNSも、YouTubeもメールもサブスクリプション配信サイトも公式ホームページすらもない当時(雑誌と、新聞のテレビ番組表=ラテ欄と、ラジオの視聴者リクエストのみ)、メンバーは地元のレコード屋で「シングルレコード盤」=「45回転ドーナツ盤」のジャケットを目立つ場所に移し、ペンネームでラジオと有線にリクエストしたに過ぎなかった。


 ところが、7月末『夜のヒットスタジオ』に初出演、8月に1月放送スタートと共に高視聴率を重ねた『ザ・ベストテン』の「今週のスポットライト」コーナーにライブハウス・新宿ロフトから生中継で出演すると、お茶の間から一挙に火が点いた。



 そもそも、彼らは革ジャン・ブーツスタイルとも、永ちゃん(矢沢永吉)らわずかばかりのロックンローラーとも、明らかに一線を画していた。


 いや、“盟友”世良公則&ツイストらとも異なり、異彩を放っていた。衣装代もろくに与えられずジョギパン一丁、いかにも貧乏で不潔感ただよう無精髭、ユニークなコメント、お世辞にもテクニックが高いとは言い難いがむしゃら=個性的な演奏(「セミプロ」はパーカッションの野沢“毛ガニ”秀行のみ)、洋楽マニアにしか通じないクワタのど迫力にして速射砲のようなボーカル、呑めや歌えやで配置した後輩や知人ら大所帯のサクラ、決してニヒルに見せないC調三枚目路線、理屈ぬきの圧倒的なエナジー……これらのモメントがますます彼らを大学音研サークルあがりのアマチュア・コミックバンドとお茶の間に印象づけたことは間違いない。

 だが、翌日から、それまで世良公則のハスキーヴォイスのモノマネが全盛を極めていた小中学校で、なんと子供たちが「♪ラララ!」の兄ちゃん♪、“サザンのクワタ”をパクッたほどだった。それに輪をかけて、ザ・ドリフターズの『8時だョ!全員集合』出演で、勢いが加速した。



 右のように、サザン『勝手にシンドバッド』(ビクター)の話題が巷で爆発したのも、それなりに根拠があった。彼らが所属した芸能事務所アミューズの大里洋吉の手腕?!である。


 ナベプロで“キャンディーズ解散を半年遅らせた男”大里洋吉が独立してつくったアミューズは、言わば所属タレント第一号である原田真二の個人事務所的位置づけであった。だが、コマーシャリズムを嫌った原田真二が移籍。その二週間後に(タレント第二号にしてこの時ゆいいつ)所属したサザンオールスターズがロックバンドでありながら、半ばコミックバンドの体で“社運を賭けて”売り出されたのも無理はなかった。しかし、このデビュー時のサザンオールスターズの扱い、キャンディーズ元マネージャー・大里洋吉の抜群の嗅覚と仕掛けは、数年後、そして今日に至る、“日本のビートルズ”とも言うべき〈モンスターバンド〉へと彼らが飛躍する契機となったこともまた事実であった、そう今日からとらえ返しうる。もし、他の事務所であれば、サザンオールスターズならびに桑田佳祐の才能は決して開花することはなかった、と断言できる。



 サザンはコミックバンドか?、ロックバンドか?、はたまたアイドルグループか?、百家争鳴入り乱れる中、8月14日付けオリコンチャートで『勝手にシンドバッド』は55位に浮上した。

 お茶の間で、学校で、レコード屋で、有線でリピートされまくると、10月9日付けで、ついにオリコン週間チャート3位を奪取。一躍“時の人”となった。

 リクエストと有線とオリコンなど総合点でランキングが演出された『ザ・ベストテン』(放送作家は秋元康)でも、11月9日ランクイン初登場10位、ついに最高4位を獲得。



 オリコン年間23位、累積44.0万枚を売上げたのだった。半月間で、「売れた」のである。



 その只中、8月25日デビュー・アルバム『熱い胸さわぎ』が緊急リリース。当時のビクタースタジオにあった16チャンネルのマルチレコーダーで録音され、熱気溢れる型破りの作品が完成。


 同時に、『勝手にシンドバッド』が大ヒットを記録すると、間髪入れず11月25日にセカンド・シングル『気分しだいで責めないで』が発表された。


 こうして、サザンが予想外に人気を博した結果、12月10日の九段会館より


『サザンオールスターズデビューコンサート胸さわぎ』

ツアーがようやくスタートしたのである(1979年1月20日まで全9公演1万8千人動員。


 続いて同年3月20日~6月6日まで


『春50番コンサート』


を開始。全50公演、公称12万5千人を動員)。



 だが、依然としてサザンオールスターズは、(少数のロックファンをのぞき)そこ存在する一般人には、たかが“一発屋”の新人コミックバンドとして人気を博したに過ぎなかった。





 しかしながら、実は「J-POP」はサザンオールスターズの登場と共についに革命前夜の情勢に突入したのだった。作品の質から言って、今日からはそうとらえ返しうる。



 すなわち、当時の日本の音楽的背景をとらえ返せば今日、その革命性・先駆性は一目瞭然である。

 すでにザ・ビートルズにザ・ローリング・ストーンズが進出してきたことで、日本の音楽はその処女性を喪失していた。舶来の文化と日本の伝統芸能の狭間で、実は、歌謡曲は身体だけ大人にさせられても、おつむは未だに少女丸出しのまま、フラフラと揺らめいていたのである。日本でロックは可能なのか?、この問いはとどのつまり英語圏の文化であるロック、ポップスのメロディーに、日本語を乗せられるかどうか?の問いだったのである。


 ところが、桑田佳祐は《記号化した日本語》をメタ言語化し、ロックサウンドならびに“メロディー”にのせたのである。日本語の響き(シニフィアン)と日本語の意味(シニフィエ)を絶妙にからみあわせながら“日本語の歌詞”を言わばシビれる〈ROCK言語〉として脱構築してしまった。

 当時の桑田佳祐にとっては海の向こうの音楽や売れっ子天才作詞家へのただの憧れに過ぎなかったのかも知れない。だが、桑田佳祐という抜群なバランス感覚をもった人の音楽センスと音楽知、当時の歌謡界の歌詞の世界観(反フォーク・ソングの歌詞)の模倣、類いまれな耳の良さから発酵した発見が大衆的に浸透することによって、日本のROCKが初めて本格的に産声を上げる結果となった。


 だから、日本のROCKの成立とは、《サザン登場》をターニングポイントとし、登場以後、現在まで変化を遂げているだけであって、サザンデビューから12年間をこえる革命(日本ポピュラーミュージックの成立⇒浸透⇒確立⇒進化)は、サザンを支持するか否かを問わず、45年間、一度として訪れてはいない。


 故・志村けんのギャグにインスピレーションを受け・沢田研二の『勝手にしやがれ』+ピンク・レディーの『渚のシンドバッド』から成る冗談のようなタイトルのデビュー曲『勝手にシンドバッド』。


 当初、ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』調のミディアム・テンポだった。ところが、レコーディングでスーパー・パーカッショニスト・斉藤ノブがリズム・アレンジしプロデュースすると、曲調は一変。イントロから「ラララ」のコーラスで始まる異様な迫力のお祭りさわぎとそれでいてソウルフルに生まれ変わったこの曲は、「今、何時?」「そうね、だいたいね」というコールアンドレスポンスと「胸さわぎの腰つき」というサウンドに溶けあうような絶妙な心象&情景描写のフレーズと共に、1970年代後半のセックス・ピストルズに代表されるロンドン・パンク・ロック・ムーヴメントを包含しつつ、ロック、サンバ、ビート・ポップ、グラム・ロック、ブギ、R&B(リズム・アンド・ブルーズ)、ブルース・ロックに南部(サザン)ロック、ポップス、歌謡曲など音楽ジャンルの壁をやすやすとのりこえ、“なんじゃこりゃぁー!”という「J-POP」&ロックシーンの金字塔を樹ち立てたのだった。この曲が永遠に語り継がれるとは、当時、桑田佳祐ですら思いもよらなかったろう。



 青山学院大学の音楽サークル「Better Days」(ベター・デイズ)に所属していた学生が中心でつくられたこのグループは、アマチュア・ロック・コンテスト「ヤマハ East West'77」にのぞみ、本選入賞・桑田佳祐が「ベスト・ボーカル賞」に輝く。この結果、ビクターの高垣健の目に止まり・今の芸能事務所アミューズにスカウトされ、桑田らは何の保証もないままプロデビューを決めるのである。同時にサザンオールスターズのメンバーが固まった。


 ビートルズ、ディラン、クラプトン、オールマン・ブラザーズ・バンド、リトル・フィート、レオン・ラッセル、ニール・ヤング……60年代~70年代当時のブルースロックやアメリカン南部ロックおよびプログレやグラム・ロックやハード・ロックが全盛だった大学音楽サークルのノリのまま彗星のごとく現れたのがサザンオールスターズだった訳である。




 筆者は、右のサザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』の革命性こそが、その後45年間にわたる彼らサザンの音楽スタイルを決定したと思うのだ。時代と戯れつつも、不断に時代と闘うサザンオールスターズの独自性を。



 なお、サザンオールスターズデビュー25周年記念日である2003年6月25日に、

『勝手にシンドバッド 胸さわぎのスペシャルボックス』

が25万セット限定リリースされると、初日デイリー1位を獲得。続く7月7日付け週間シングルチャートでも第1位に輝いた。

 実に25年後四半世紀、1306週を経ての1位獲得は、今もオリコン史上燦然と輝く記録である。
 しかも、この『勝手にシンドバッド』という楽曲は、新人ロック・バンドの一(いち)デビュー曲なのだ!





 こうして、本年2023年6月25日、サザンオールスターズはメジャーデビュー45周年を迎える。このことを記念してサザンのオリジナル・アルバム全解説を始めたい。


 まさに、今なおメジャーシーンの第一線に起ち続けるサザンオールスターズ45年間の道のりは、そっくりそのまま日本ポピュラー・ミュージックの歴史であったのだ★









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