村上春樹による村上春樹のリマスターは成功したのか――『街とその不確かな壁 』評
文=福嶋亮大


2023.04.23 12:00
 私は村上春樹の小説を比較的熱心に読んできたほうだと思うが、特に2010年前後に出た『1Q84』三部作以後の作品には、毎度首をかしげざるを得なかった。なぜこの小説が書かれねばならなかったのか、その動機やコンセプトが判然としないまま、いかにも村上春樹的なキャラクターが村上春樹的な性愛と村上春樹的な壁抜けをひたすら擦り切れるまで反復するばかり――しかも、文体はかつての弾力性やスピード感を失い、キャラクターも総じて精彩を欠く。宇野常寛もnoteの記事(『街とその不確かな壁』と「老い」の問題ーー村上春樹はなぜ「コミット」しなくなったのか(4月17日追記))で同じようなことを書いているが、私も村上のこの低調な自己模倣モードには耐え難いものを感じていた。

 むろん、以前の作品と似ていることが一概に悪いわけではない。例えば、小津安二郎の映画は毎回どれも似たようなキャラクターばかり登場するが、それでも十分面白い。作家とは究極的には二、三の固有のイディオムを、人生を賭けて鍛え上げてゆくしかない人種である。その限られたイディオムが、社会との摩擦を引き起こしたり、社会の変化を先取りしたり、社会の忘れている旋律を思い出させたりするならば、それでいいわけだ。だが、近年の村上の作品からは、いわば生成AIが村上春樹になりすまして書いたような印象を受ける。その結果、彼の小説は社会環境との共鳴を失って硬直し、自家中毒に陥ってしまったのではないか。

 さて、今回の『街とその不確かな壁』(以下『街』と表記)については、その執筆動機だけははっきりしている――長らく封印していた初期作品「街と、その不確かな壁」を、長編にリメイクするというのだから。それはいわばアナログ音源の旧作にデジタル・リマスターを施して、その面目を一新しようとする試みである。ただ、この旧作はすでに『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(1985年/以下『世界の終り』と表記)という村上の代表作の母胎になっている。つまり、失敗した旧旧盤と成功した旧盤がすでにあるのに、わざわざ同じ曲の新盤を録音しようというのが本作の趣旨なのだ。この時点で嫌な予感がするし、実際それが成功したとは言い難い。

 そもそも『街』は、批評的にどう評価するかという以前に、単純に技術的なレベルでも問題が多い。とりあえず以下三点あげておこう。

 第一の問題は、肝心かなめの「壁」がうまく造形できていないことである。例えば、壁は第一部で急に擬人化されて「おまえたちに壁を抜けることなどできはしない。たとえひとつ壁を抜けられても、その先には別の壁が待ち受けている。何をしたところで結局は同じだ」「好きなだけ遠くまで走るといい[…]私はいつもそこにいる」(174頁/太字は原文)とおごそかに告げる。こうなると壁はまるでチープな漫画のお化けのように感じるが、実のところ、壁は主人公を脅す以上の何かをするわけでもない。村上にとって、恐怖や暴力は最も重要なテーマであったが、本作の壁からそれを感じるのは無理だろう。この怖いようでまったく怖くない壁=システムの内部で、少女にかしずかれながら一人静かに「古い夢」を読むという凡庸なナルシシズムとミニマリズムが、作品を通じてひたすら美化されてゆくのである。

 そもそも『世界の終り』では壁に囲まれた心象世界は封鎖されていたが、『街』の閉鎖空間はどうやら心で強く望めば外に出られるようで、日本の首相の警護さながらセキュリティがずいぶん甘いと言わざるを得ない(門衛はいったい何のためにいるのか……)。街の「高い壁」は「住民ではないものが中に入ることを阻止するべく、強固に厳密に機能してきた」と一応書いてあるけれど、それはしょせん見掛け倒しなのだ。こうなると、壁はもはや「壁抜け」されるために存在しているにすぎない――だが、それはそもそも壁と呼べる代物だろうか。

 むろん、村上としてはただの壁ではなく「不確かな壁」なるものを描きたかったのだろう。だとしたらなおさら、いわく言い難い「不確かさ」こそを、確かな作家的握力によってつかみとらねばならなかったはずだ。村上はおそらく、壁=システムのもつ父性的な強制力と母性的な甘美さの重なりを「不確か」と呼びたいのだと思うが、この「父母」がともに生成AIの出力した痩せ細ったヴィジョンに見えてしまう、というのが本作の難点である。例えば、デフォーやカミュがペストによる特殊な「監禁状態」を描ききるのに、どれだけ多くの知識と技術を投入したか、村上が知らないはずはない。だが、本作における監禁状態は厳密に説明されることなく、あいまいなほのめかしに終始している。要するに「不確かな壁」の描き方こそが最も不確かなのである。

 第二の問題は、主要なモチーフに深く付きあわず、あっさり放り出してしまっていることである。例えば、第二部では「福島県Z**町」なる田舎街の図書館が舞台になり、もう一方の「壁で囲まれた街」は「魂にとっての疫病」から自らを隔離したことが明かされる。わざわざこのようなことを書くからには、『街』は震災や原発事故やパンデミックを背景とする物語なのだろうと、誰しも想像するだろう。「魂」や「疫病」という重々しい言葉を、しかも傍点入りで書きつけてしまったからには(そのことの良し悪しは脇におくとして)、とにかくそれらの言葉を作中で機能させねばならない。それが物語作家の責任というものである。

 しかし、これらの言葉はすべて思わせぶりな記号にとどまっている。驚くべきことに「福島県」を選んだことが何を意味するのか、「魂にとっての疫病」とは何なのか、その具体的な記述はほとんどなく、あとは読者が勝手に想像してくれと言わんばかりである。さすがにこれはひどい怠慢ではないだろうか。むろん、村上は疫病にリアリズム的な具体性を与えたいのではなく、いわばパンデミックの起こるような世界を寓話化・抽象化したいのだろうが、それならそれで、むしろ寓話としての疫病を厳密に描かねばならない。

 そのような厳密さが欠如しているために、本作は「疫病の因子を締め出して街を正常に保ち続ける「夢読み」の作業に――つまり壁=システムの側に――なぜか主人公たちが加担し続ける」という意味不明のストーリーになってしまった。かつて村上はイスラエル(当時パレスチナのガザ地区を侵攻していた)のエルサレム賞の受賞スピーチで「壁と卵」の比喩を出して、自分は壁にぶつかって割れる卵の側に立つと宣言した。しかし、本作における夢読みの作業は、疫病的な不穏分子(いわば卵)をなだめて世界をノーマライズする「壁」のシステムにあいまいに加担しているとしか読めない(※1)。「卵」の側に立つという宣言は、いったいどこにいったのか……(そもそも、システムに圧迫される卵という隠喩そのものが素朴すぎるのだが)。というより、本作ではシステムとしての「壁」はもはや壁ではないので、それを脅かす「疫病」も「卵」も実は描きようがない。要するに、『街』は不明瞭な隠喩を乱用しすぎたせいで、何もかもあいまいにしてしまい、結局何を伝えないのかまるで分からない小説になってしまったのである。

 第三の問題は、(これはここ最近の村上の小説全般に言えることだが)キャラクターの動きが総じて事務的・機械的になってしまったことである。特に、後半を過ぎて急に現れるサヴァン症候群と目される「イエロー・サブマリンの少年」が、なぜかその後の物語の主導権を握るのだが、そのように進めるのならば、ふつうはもうちょっと前から伏線を張るべきだろう。

 だが、それ以上に問題なのは、この物語のキーパーソンにされてしまった少年の描き方――どれだけ分厚い本も一目で記憶してしまう天才児で、しかし社交性を欠いている――が、サヴァン症候群についての通俗的なイメージから一歩も外に出ないことである。少なくとも、『世界の終り』のときの村上は、この手の症例名一つで横着にレッテル張りすることを避けるためにこそ、技術を尽くして、自身の小説のなかにしか存在しないミステリアスでエキセントリックなキャラクターたちを造形していたはずである(※2)。当時の村上ならば、実在する(しかも既存のフィクションですでに何度も題材にされてきた)症例のイメージに寄りかかるのは、作家としての敗北だと考えただろう。この一点だけをとっても、旧盤と新盤とでは比較にならないと言わざるを得ない。

(※1)いちおう参考になる個所を引用しておこう。「それら[封印された夢]が何かの拍子に力をつけ、一斉に殻を破って外に飛び出してくること――それが街にとって潜在的な恐怖になっているのではないでしょうか。[…]だからこそそれらの力を少しでも鎮めて解消しておきたいんです。誰かが古い夢たちの声に耳を傾け、見る夢を一緒に見てやることで、その潜在熱量が宥められる――彼らはおそらくそれを求めているのでしょう」(150頁)。

 強いて言えば、この「古い夢」こそが「卵」なのだろうが、そうだとしたら、夢読み――村上にとっては小説家そのものの寓意でもある――は壊れやすい夢=卵の声を聞き取り、その不満をガス抜きしながら、結局は壁=システムの動作を守っていることになる。なるほど、今の村上春樹の境遇を考えれば、村上本人が自分の生み出した不確かな壁=システムに囚われているという自己認識は、まったく間違っていない。しかし、それを問わず語りに認めてどうしたいのか。私にはよく分からない。

(※2)村上のもう一つの特徴は「日常のありそうもなさ」を物語の資源としたことである。例えば、なぜかリアルサウンドというウェブサイトがある日設立され、なぜか私がそこで村上の書評をし、なぜかそれを今あなたが読んでいるという、この一連の出来事がつながることは、ほとんどありそうもないことに思える。しかし、世界とはこのありそうもないことの集積なのだ。サヴァン症候群の少年や図書館長の亡霊よりも、世界そのもののほうがありそうもない――過去の村上の小説はそのような感覚に根ざしていた。

 もとより「壁で囲まれた街」というイメージが、パンデミックとロックダウンを経た現代世界に向けられた寓話的な信号であることは間違いない。そして、現実にも「イエロー・サブマリンの少年」のように、この都市封鎖と監禁状態をむしろ福音と感じた人々は相当数いただろう。苦しいとも心地よいとも決めがたいこのあいまいな状況を「不確か」と言い表すのは、分からないこともない。しかし、こんなことは言いたくないが「ステイホームも人間嫌いにとっては結構幸せだよね」「でも、いい大人なんだから、そろそろおうちから出なきゃね」程度のことを言うのに六〇〇頁以上もかけるのは馬鹿げている。

 いずれにせよ、本作はそのタイトルに反して「壁」の物語ではない。それは強いて言えば「鏡」の物語に近いだろう。ぼくときみ、幼いぼくと成長した私、図書館長になった私と前図書館長の幽霊、図書館長の私と図書館に入り浸るイエロー・サブマリンの少年……これらのカップルはいずれもお互いを鏡像のように反射しあうので、読者はどちらを向いても主人公に似た本好きで内向的なキャラクターに出会うことになる。このナルシシズム的な鏡のゲームは、部族のなかでお互いの顔を反射しあっている現代のIT社会の肖像にはなり得ているかもしれない。

 ただ、私がいちばん気になったのは、この鏡のゲームに死者すらあっさり含まれてしまうことである。例えば、ガルシア゠マルケスの『コレラの時代の愛』における「溺死した女の亡霊」が登場するエピソードを引用した後、コーヒーショップで働く「彼女」は「私」に次のように語る。

「彼[ガルシア゠マルケス]の語る物語の中では、現実と非現実が、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」と彼女は言った。「まるで日常的な当たり前の出来事みたいに」
[…]
 私は彼女の隣のスツールに腰を下ろし、言った。
「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアルは基本的に隣り合って等価に存在していたし、ガルシア゠マルケスはただそれを率直に記録しただけだ、と」
「ええ、おそらくそういうことじゃないかしら。そして彼の小説のそんなところが私は好きなの」(576‐7頁)

 しかし、このように考えるならば、死者はせいぜい生者に都合よく利用されるだけだろう――この両者は「等価」だというのだから。それにしても、恐るべき内戦とおぞましい虐殺の相次いだコロンビアの作家ガルシア゠マルケスにとって「日常的な当たり前の出来事」がいかなるものであったかを想像するそぶりすらないのは、いったいどういうことなのか。仮にガルシア゠マルケスの世界が「生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」ものだとして、それがスツールに腰を下ろして呑気にネタにできる類のものでないのは明らかである。

 そもそも、村上自身の母胎となった戦後日本の文学にしても、生き残った自分たちと「等価」であるとは到底言えないような、いわば≪死んでも死にきれない戦争の死者たち≫から育ってきたのではなかったか。そう簡単に消化吸収できない死者たちについてどう証言するか――それが大岡昇平を筆頭に、戦後文学者の抱え込んだ難題であった。村上もまた、歴史修正主義(それは死者をイデオロギー的に消化吸収し、政治利用に差し向ける運動である)の跋扈した90年代の『ねじまき鳥クロニクル』でまさにこのテーマに取り組んだ。その時期の村上ならば、生者と死者が「等価」だとは言えなかったはずである。

 だが、『街』で繰り返される鏡のゲームは、生者と死者のあいだの非対称性をすっかり忘れさせる。中年に達した「私」は自らの鏡像たちに取り巻かれながら、イエロー・サブマリンの少年と合一することによって、再び若返り、思い出の少女とめぐり会う――だが、これはせいぜいオカルト的なアンチエイジングの儀式にすぎない。村上が立ち返るべきは、幻想の思春期ではなく、むしろ『世界の終り』や『ねじまき鳥クロニクル』で日本文学の積み残した難題にチャレンジしていた壮年期ではなかっただろうか。

 ところで、大江健三郎が亡くなった直後に、村上の『街』が出たことにはやはりそれなりに象徴的な意味があるだろう。最後にそのことを述べておきたい。

 先日リアルサウンドの批評(福嶋亮大の大江健三郎 評:《弟》の複眼――大江健三郎の戦後性)でも記したように、大江健三郎は戦後日本を外部のない「閉鎖空間」として捉えた作家である。先行する安部公房が中性的な「壁」をテーマとしたのに対して、大江は「粘液質の厚い壁の中」に閉じ込められ「不思議な監禁状態」に置かれた若者を描き続けた(「他人の足」1957年)。この粘っこく濃密な空間のなかで、大江の主人公はいわば右目と左目で異なる世界を見るように強いられる――このパララックス(視差)にこそ、経験豊富な≪兄≫の世代の戦後文学者(野間宏や大岡昇平に代表される)たちとの違いがあることは、先の批評で詳しく述べたとおりである。

 大江自身は「敗戦の現実に立ち、終末観的ヴィジョン・黙示録的認識を、その存在の核心におくようにして、仕事を始めた人々」を「戦後文学者」と呼んでいる(『同時代としての戦後』)。つまり、戦後文学とは人類の「絶滅」の可能性を、差し迫った現実として受け取った作家たちの運動なのである。しかし、戦後文学の≪弟≫である大江は、一方では暗い絶滅の予感にとらわれながら、他方では戦後の文化的解放を享受してもいる。例えば『われらの時代』(1959年)の青年は何も希望がなく、へとへとに疲れ切っているのに、苦行のように勃起する。「快楽の動作をつづけながら形而上学について考えること、精神の機能に熱中すること、それは決して下等な楽しみではない。いくぶん滑稽ではあるが、それは大人むきのやりかたというものだろう」。

 大江にとって「壁で囲われた世界」は戦後日本の、あるいは戦後文学の自画像である。それはねばつく快楽で満たされた身体的世界であり、かつ絶滅の可能性を含んだ形而上学的世界でもある。この分裂を「複眼」で見ようとする大江の主人公は、いわば不能の一歩手前でむりやりに勃起させられるという、なんともつらく息苦しい状況に放り込まれている。しかも、この粘着質の壁の「外」も見つからないのだ。

 村上の80年代の『世界の終り』は、まさにこの大江的な分裂をテーマとしながら、その想像力をハイジャックした。そこには快活なアクションがあり、快楽的な性愛や料理のシーンがある(=ハードボイルド・ワンダーランド)。もう一方にはまさに「終末観的ヴィジョン・黙示録的認識」に支配された静謐なポストヒストリカルの世界がある(=世界の終り)。この双方において、大江のねばねばした「粘着質の壁」はきれいに中性化された。村上は大江的な「複眼」の想像力を、きわめて巧妙に換骨奪胎したと言えるだろう。

 大江が触覚的な世界を濃密に象ったとしたら、村上はそれを計算的な世界に変換した。『世界の終り』の語り手は「右手と左手でまったくべつの計算を平行しておこなう」ことに習熟しているが、これはまさに大江の「複眼」をハイジャックして、軽やかで中性的な文体に置き換える象徴的なシーンである。私は先ほど『街』をデジタル・リマスター版になぞらえたが、実はすでに80年代の『世界の終り』こそが、アナログな戦後文学のデジタル・リマスター版であった。戦後文学の重苦しい響きは、村上的なリマスタリングを施されて、より洗練された音質に変わったのである。

 ただし、その結果、大岡昇平らに憑依した「終末観的ヴィジョン・黙示録的認識」は敗戦の記憶を失って、むしろ歴史をもたない美しい計算プログラムに置き換えられる。しかも、そのことは村上自身が自覚していた。そう望んだわけでもないのに「世界の終り」に閉じ込められた「僕」は、次のように語る。

しかしどうして僕が古い世界を捨ててこの世界の終りにやってこなくてはならなかったのか、僕にはその経緯や意味や目的をどうしても思いだすことはできなかった。何かが、何かの力が、僕をこの世界に送りこんでしまったのだ。何かしら理不尽で強い力だ。そのために僕は影と記憶を失い、そして今心を失おうとしているのだ。

 この作品が、柄谷行人をはじめ批評家たちに批判されたのは当然だろう――村上は戦後文学の達成をアイロニカルに骨抜きにして、「記憶」を失った文学に置き換えてしまったのだから。しかし、村上が作家的技術のすべてを投入し、戦後文学を粘り強くリマスターしていった、その執念深さは評価に値すると私は思う。

 大岡昇平らが持ち帰り、複眼の≪弟≫である大江健三郎がそれを継承した戦後文学のプログラムから、村上は別の音質をもった文学を作り出そうとした。それは生々しい記憶を失った代わりに、ある種の≪可能性の文学≫の道を開示した。現実性の周りを取り巻いているいろいろな可能性まで小説として定着させる――それには、文章のすみずみに均質に光をあててゆく村上の中間色の文体が向いていたのである。この観点から言えば、90年代の『ねじまき鳥クロニクル』は、デジタル・リマスタリングされた文体を使って、再び戦後文学の抱えた「絶滅」や「戦争」の問題に回帰しようとした作品だと評せるだろう。私の考えでは、村上のやろうとしたことの真価は『世界の終り』から『ねじまき鳥クロニクル』に到るプロセスにおいて見いだせる。

 しかし、『世界の終り』の音源をさらにリマスタリングした今回の『街』は、戦後日本という環境から切り離されて、ただ村上春樹という独我論的な個人スタジオのなかで孤独に鳴っているだけである。デジタル・リマスターの二乗なのだから、それも当然だろう。最近の村上はアナログレコードの再評価もしているが、そのわりに最近の自作においてはアナログの良さはむしろ消えているように思えてならない。

 昔は聴取環境(=戦後社会)込みで良い音が鳴っていたレコードが、デジタルの操作で表面だけ小綺麗になったぶん、かえって聴く価値がなくなった――それが『街』の読後の印象である。レコードのほこりが不快な音をたてたり、思いがけない衝撃で針が飛んだりする――そういうノイジーな聴取環境もすべて込みで、かつての戦後文学は特殊な音楽として成立していた。逆に、今の村上はノイズを排除して、過去の自作の不自然な「若返り」に向かっている(※)。しかし、この種の妙なリマスタリングは端的に言って不要だろう。大江健三郎が世を去り、村上春樹が『街』を刊行した2023年は、戦後文学が名実ともに終わった年として記憶されるべきだと思う。

(※)なお、『街』とほぼ同じタイミングで、村上龍の新作『ユーチューバー』が出たことも付け加えておこう。詳しくは新聞(「ユーチューバー」書評 中間色の領域 自然体の語りで)で書評を書いたとおりだが、村上龍はここで七〇歳を超えて思春期の淡い恋を描くというおかしなことはやらずに、七〇なら七〇なりの過去との付き合い方があるということを示している――というより、谷崎潤一郎でも川端康成でも古井由吉でも、そうやって加齢にあわせてチューニングするのがふつうなのだ。『ユーチューバー』はあくまで小品であり、老人性を売りにしているわけでもないが、中くらいのエネルギーの出力でもこの程度のものは十分書けるよという作家的な矜持を感じさせる。さらに、新潮社が総力をあげたと思しき『街』の手の込んだ装丁と比べて、『ユーチューバー』はオレンジの地に黒いカタカナが並ぶだけのデザインで、ずいぶんぶっきらぼうで即物的である。要は、変にお化粧して着飾るよりも、ありのままの姿かたちで勝負しようということだろう。それが小説の本来的な姿であるのは言うまでもない。

 ついでにもう一点だけ。『街』で引用されるガルシア゠マルケスの『コレラの時代の愛』は、若いときに相思相愛だった二人が、その数十年後に老醜をものともせずに、腐敗した川を船で突き進む場面で終わる。少年や少女と合体して若返ろうとする『街』とは、似ても似つかない小説である。


福嶋亮大
1981年京都市生まれ。文芸批評家。京都大学文学部博士後期課程修了。現在は立教大学文学部文芸思想専修准教授。文芸からサブカルチャーまで、東アジアの近世からポストモダンまでを横断する多角的な批評を試みている。著書に『復興文化論』(サントリー学芸賞受賞作)『厄介な遺産』(やまなし文学賞受賞作)『辺境の思想』(共著)『ウルトラマンと戦後サブカルチャーの風景』『百年の批評』『らせん状想像力 平成デモクラシー文学論』『ハロー、ユーラシア 21世紀「中華」圏の政治思想』『感染症としての文学と哲学』等がある。