本日8月15日、65年前の今日正午、何があったかご存じだろうか? そう玉音放送で戦争の終結が伝えられたね。だから今日は65回目の終戦記念日だ。



合掌
きけ わだつみの声



1945年に日本がポツダム宣言を受諾した8月14日、


若松孝二監督作品、映画『キャタピラー』の初日舞台挨拶を観覧してきた(ヒューマントラストシネマ有楽町)。






言葉にならない。瞳から全身を駆け廻る慟哭。心の奥にこみあげる感涙。



寺島しのぶは余りにも豊かな表情で渾身の演技を披露し、戦争と人間の本質を見事に表現し尽くした。ア然とした。言葉にならなかった。怒り心頭に発し、心うち震えるほど哀しみがこみあげた。そして、生きる希望を見いだす解き放たれるかの姿は本当に美しい。



そうじゃねぇ、そうじゃねぇ、ピンと来ていない評論家や映画監督がふれられない一言……【一言で言うならこの映画は、女優・寺島しのぶの顔の《表情》の変貌を目を背けず凝視する映画】。



あえて言うと監督・若松孝二の描きたかった意図すらもこえて、寺島の表情の移り変わりを見据えるだけで、あの戦争とは何だったのかがはっきりと見えてくる。



無数に台詞はあるが、この映画がたとえサイレント(無声映画)だったのだとしても、全ての場面が隈なく伝わってくるに違いない。


いや、それどころか寺島しのぶの一挙一動に、余りにも自然な、余りにも壮絶な、その顔の表情一つ一つに……一切の音が消えるのだ……






映画は1944年。冒頭、夫・黒川久蔵(大西信満しま)の満州での様子が映されてまもなく、妻・シゲ子(寺島しのぶ)が夫と初めて対面するシーンがある。変わり果てた夫……それを凝視める寺島しのぶの表情が自然なまでに生々しい。




両手両足を失った夫の姿、言葉さえまともに発せられない夫……食うこと、寝ること、食う、寝るが繰り返される……が、男女の交じわりすら戦争の恐ろしさがまざまざと反映される。




大西信満の熱演とともに、写真週間誌が色めき立って紹介するシーンでは何らない。寺島しのぶの動き、表情は、そんな俗説を吹き飛ばすほど壮絶。



現在進行形の戦争の反映であるとともに男女の愛憎・なかんづく女の宿命が、徐々に男女・夫婦の立場に変化をもたらす、壮絶なるアクションですらある。






冒頭の夫の戦場の様子が繰り返しリフレーンされる。これが妻にも語る事のない夫・久蔵のトラウマとなって苛まれてゆく。もちろん日中戦争の実写フィルムは映されるが、監督はあえてワンシーンに焦点を絞って戦争の真実を描く。



リフレーンされる戦場の真実こそ、右派転換した・かのゴーマン派が描く「南京大虐殺はデッチあげ」「勝ってる戦争はカッコいい」 、過去の日本国家の戦争犯罪を直視するのは「サヨクの自虐史観だ」とする、侵略戦争賛美の《皇国史観》の危険性を逆証する。






こうして「軍神さま」の久蔵と共に妻・シゲ子もまた、戦争勝利の「神風」を信じ大本営発表に一喜一憂する。が、次第に神経が苛まれてゆく。実は夫・久蔵にお産ができない「石女(うまずめ)」(ママ)として虐げられてきたシゲ子の憎しみも、夫を前に徐々に鬱積してゆく。



夫・久蔵を荷車に載せ村をまわるシーン、出征式に臨むシーン、食事のシーン、シゲ子が久蔵を抱きしめるシーン……戦時中の閉塞感の反映たる閉鎖された居間で忠義と憎悪、僅かな喜びと哀切、苦悩と愛惜、受動と能動に揺れ動きながら、自我が芽生えてゆく女性シゲ子。



彼女の魂がのりうつったかのような寺島しのぶの演技に胸が締めつけられるかのようだ。驚くべきリアリズム。



3D?…FSX?…いやいや……予算なし、衣裳係なし、メイク係なし。さらにマネージャー同行不可、しかも自らノーメイクを志願。リハはほとんど一回、撮影もおよそ一回一発撮り。ヌード不可の事務所の条件も自ら自発的に破棄。そんななか、撮影中に実際に体調に異変をきたしたと言う-血尿、じんましん……。そして、たった12日間!?の撮影期間……



特に一回勝負であの演技! 日本の戦局と機を一にするかのような表情の変化の流れ、自我を獲得してゆくかのような表情の説得力。しかも驚くべき事に、キャメラの角度によって全く意識せず、一つとして同じ表情がない!!






『ヴァイブレータ』と、大西信満との最初の共演作『赤目四十八瀧心中未遂』で、すでに国内最高峰に立っている女優・寺島しのぶ。今回の大西との抜群のコンビネーションとも相まって、スクリーンに神が降臨した。



ここ35年間の女優の演技の最高峰だろう。寺島しのぶはノーメイクで38歳にして頂点に立った。たとえ本人が拒絶しても。



あえて並ぶ演技を挙げるならば、『イングリッシュ・ペイシェント』で、戦時中「イギリス人の患者」を看病しながら真実の愛と自我を獲得してゆくジュリエット・ビノシュの演技をしか知らない。



35年前、からゆきさんの晩年を自然体で演じ切った田中絹代の正当なる後継者の誕生を目撃した!






65年にベルリン国際映画祭に出品された『壁の中の秘事』が「国辱映画」と罵られて以来、戦後を総括する革新的作品群を発表してきた巨匠・若松孝二。



しかし、実は私はベルリン国際映画祭のフォーラム部門で2冠に輝いた『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)』に、大変申し訳ないが、もの足りないものも感じていた。学生達の敗北の組織論的根拠の総括が暴力一般論にすり変わっていると思ったからだ。



しかし、今回の『キャタピラー』では最高のパートナー寺島しのぶの神がかった演技に支えられて、戦争の本質を見事に突きだしている。






「正義の戦争」などないとの叫びは、戦争には動員する者同士の対立しかなく、有無を言わさず戦争に動員されるのは必ず労働者・学生・市民であり、国家による《同胞殺し》の惨たらしい虐殺に国境の別はないのだ、と深く考えさせられた。



米国が日本が…、そしてアフガン・ユーゴ・中東・朝鮮で、今も同じ事が繰り返かれている或いは日々繰り返されかねない。



この事を感じて私は、この映画ならびに現在の時代の《目撃者》として、現在と過去との歴史の誤ちを学び・現在から未来へと真実を伝えていく、義務と責任があると思った。






未来のために過去と現在の欺瞞を頭だけでなく身体的にしっかり見抜き、二度といつか来た道を繰り返さぬために真実を伝える事。この事が新名曲『目撃者』で秋元康が一番訴えたい事かも知れないと思った。






被爆して昇天した少女の絵を背景に最後に元ちとせが唄う主題歌『死んだ女の子』。
唯一、日本で地上戦が行われた沖縄。『わだつみの木』いらい沖縄民謡的ソウルミュージックを歌ってきた彼女の歌の素晴らしさ。



歌 元ちとせ
作詞 ナジム・ヒクメット
作曲 外山雄三
編曲 坂本龍一
日本語訳 中本信幸




元ちとせ-この歌唱こそ、真のディーヴァだ。





戸をたたくのはあたしあたし

平和な世界に
どうかしてちょうだい

炎が子どもを焼かないように

あまいあめ玉が
しゃぶれるように






寺島しのぶの畢生の演技に支えられた『キャタピラー』は、いかなる戦争映画をもこえる戦争の本質を描いた人間ドラマの最高傑作である。ここには男と女の抗い難い宿命すら描かれている。



過去の教訓を風化してはならない。だから、逃れられない過去から未来を変えるために、人は現在を抗う。



だからこそ、若松孝二監督作品『キャタピラー』は、紛れもなく今の日本がはっきりと映し出された映画なのである。








〔付記-読まれぬ手紙〕


大事な事を忘れておりました。齢74歳にして新たな代表作の一つ『キャタピラー』を完成させた若松孝二監督に心から敬意を表します。



プロ野球中継すら3Dが開始され、映画界ではTV局をスポンサーにつけ札束で興行するハイテク全盛時代。若松監督はあくまでアナログと、若松組全スタッフの想像力のみを信じ、劇場に足を運ぶ私たち観客をも信じ訴えられましたね。



舞台挨拶では監督が「俺は46年間映画を撮っていますが、こんなに劇場がいっぱいになるくらい人が入ったのは初めて、皆さん本当にありがとうございます。」という趣旨の発言を確かされました。とても新鮮で、失礼ながら《謙虚》という言葉が頭をよぎりました。


率直に言って私は監督の見解とはやや異なるけれども、この時代に反骨精神だけを拠点に偽善と偏見に立ち向かう姿勢に共感せずにはおれません。しかも監督は観客愛・映画愛を片時も忘れない。


『芋虫』でも『ジョニーは戦場へ行った』でもなく、今回の作品は最終的にオリジナル脚本。荒井晴彦の弟子黒沢久子と、出口出ですね。才能豊かな師匠はやや大衆蔑視、しかし意外や意外、監督の作家性は反権力ではあっても愛に根差していたのですね。


"イデオロギーは大衆的に物質化されて初めて、真に現実的で実践的な力をもつ" からですね。この点は私も、エンターテインメントにおける作家性とは決して同心円的な革新性に求めるべきではなく、自らの革命性を大衆的に止揚(アウフヘーベン)する不断の努力だと思います。だから、今回の監督の観衆への心からの感謝と、絶対に伝えたいとの願いに心から感銘し、人として学ばさせていただけた思いが致しました。とはいえ、その前に寺島しのぶの女優魂には心底たまげましたが(笑)。音が、世界が、ぱったりと止まるくらい、予想をはるかにこえて、凄みがあった。向こうの審査員が感銘して当然でした。


ところで、今『ザ・コーヴ』の上映妨害が社会的論点になっております。某キネマ旬報誌では某大高氏が、劇場を批判できないという事と、エンタテインメントの内容にも問題があると、客観主義丸出しに論評しました。あなた方の立場は? あなた方の敗北と自覚していますか? 問題は「表現の自由」すらも守れず妨害を許している日本映画協会と映画屋そして私たち映画ファン全員が主体的に問われるべきです。


『愛のコリーダ』など「表現の自由」をめぐって闘ってこられた監督もお怒りでしょう? 語るにおちるとはこの事ですね。


ヨーロッパのようについぞ革命の伝統のない我が国の主体性喪失=上意下達、家父長主義、追随と《日本人のお腹の中の天皇制》をまたしても痛感しました。恐ろしい事に、今も日本の現実は『キャタピラー』と本質的に変わらないんです。

某社諸君、一敗地にまみれた現在、「表現の自由」運動にくってかかる前に、あなたたちを先頭にしたマスメディアの主体性喪失と私たち自身の現状肯定主義が問われるべき何だよ! 常識の部類に属する事柄であろう!



最後に日刊スポでAKBとセットで監督の記事が出ていましたね。同じエンターティナーとして成人グループSDNも今夏「18禁解禁」を頑張っています。パフォーマンスの質は落とさない、と。意地をもった女性グループです、影ながら応援してあげて下さい。情熱を注ぐ彼女たちの背中を押せられるのは私達ファンだけです。私達の主体性もまた問われていると感じます。


「この作品に出られたことは一生の宝物。たくさんの人が朝から待っていてくれて感無量」(寺島)


「国が喜ぶ映画は撮りません。死ぬまで反抗してやろう」(監督)

「死ぬまでついて行きます」(寺島)(笑)


「偉大な妻を持って誇りだ。(この作品は)あなたのベストパフォーマンス」(夫ローラン・グナシア氏)


信念はいつの日か報われるんですね。しかし私は映倫の15R指定にも違和感をもちますが(笑)。監督の次回作にも期待しております。監督のライフワークと寺島しのぶさんをして、もっと上の演技を目指しますと決意させた偉大な仕事に感謝!!