横浜FCとフリューゲルスは別物です。 | ブログ

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三浦アツはフリューゲルスつながりで横浜FCに移籍しちゃえばいいのに

という趣旨の文章を書いたところ、

「横浜FCとフリューゲルスは別物です。一緒くたにしないでください。」

というコメントを横F様からいただきました。

この問題は僕が本気で今の仕事を目指すきっかけとなったことなので、

ちょっと取り上げてみたいと思います。

横浜フリューゲルスは、佐藤工業と全日空が出資するクラブだった。

1998年、バブル崩壊のあおりを真っ先に受けたゼネコン業界の佐藤工業が撤退を決めた。

単独でのチーム運営は困難と判断した全日空は、

同じ横浜市内のクラブであるマリノスを運営する日産に合併を持ちかけ、

川淵チェアマン(当時)はこの案を了承した。

このことが世間の明るみに出たのはすべてが決まってしまったあとだった。

突然の吸収合併(事実上の消滅)を知らされた選手、サポーター、関係者の憤りは頂点に達し、

またメディアが大きく取り上げたことで世間の耳目を集めた。

必死の存続嘆願活動も効果がなく、決定が覆ることはなかった。

こうして横浜フリューゲルスというチームはなくなった。

しかし、横浜フリューゲルスサポーターは諦めなかった。

サポーターの一部有志が、自らの力で新チーム「横浜FC」を作った。

そして、日本サッカー協会の超法規的措置により、即JFLに準会員として参入したのである。

それから7年経った今年2007年、横浜FCはJ1のピッチに立つことになったのだ。

横浜フリューゲルスと横浜FCの関係について複雑な思いを持たれる方は少なくない。

両者をまったく別物ととらえる人もいれば、横浜FCにフリューゲルスを重ねて見る人もいる。

どう見るかは心情の問題とすらいえるかもしれない。

吸収合併というからには、F・マリノスこそがフリューゲルスの流れを汲んでいるかのように思えるが、

F・マリノスの歴史に、フリューゲルスの歴史は入っていない。傍流と見なされている。

一方横浜FCの歴史にもフリューゲルスの歴史は入っていない。

98年当時、大学2年生だった僕は、この事件に大きな怒りを覚えた。

生まれて初めて義憤というものを感じた。

スポーツのあり方についてとあるライターさんの意見に偏向していた影響もあるかもしれない。

全日空や佐藤工業、また合併を認めた川淵さんに憎悪の念すら抱いていた。

けど、いまはそんな思いも薄れた。

川淵さんは当時を振り返って、

「合併を認める以外に方法がなかった。もしあの時認めていなければ、消滅するチームはもっと増え

Jリーグは危機的状況を迎えていたはず」

という趣旨の発言をされている。

これはたしかに一理ある。

当時経営がやばいチームはフリューゲルスだけじゃなかった。

このフリューゲルス事件が教訓となり、各クラブの「身の丈経営」が始まり、

Jリーガーの年俸もギュッと引き締められることとなった。

契約制度が改訂され、新人年俸の上限が定められたのだ。

あのまま放漫運営を野放しにしていたら、とっくにJリーグはなくなっていたかもしれない。

最悪のストーリーを川淵チェアマンは回避した。

これは一つの功績であろう。

しかし、である。

川淵さんは最善の手を打ったとはいえない。

まずサポーターや選手に相談するべきだったのだ。

のちに横浜FCを設立できるくらいサポーターには力があったのだ。

たとえ全日空が撤退しても、横浜フリューゲルスを残すことは可能だった。

僕が言うまでもなく、川淵さんもそのことは自覚しているようで

著書「虹をつかむ」の中でもフリューゲルスサポーターがあんなに熱いとは思っていなかったという趣旨の

発言をしている。

まあ、すべては結果論である。

あとからは何とでもいえる。

フリューゲルスサポーターは本当に気の毒だと思う。

僕も愛するチームがあるから、それを失う辛さは痛いほどよく分かる。

横浜FCが、フリューゲルスサポーターの作ったチームであっても、

それはフリューゲルスとは別物と強く主張したくなる気持ちは分かる。

けれど、世間はどうしたってフリューゲルスと無関係には見てくれない。

正確にいうと別物なんだけども。

三浦アツをフリューゲルスつながりで横浜FCに行っちゃえばいいのに、

と言ったことに配慮が足りなかったかな、という気持ちが湧いてきてはいる。

ただ、横浜FCにフリューゲルスを重ねて見ている人もいるわけで、

そういう人にとっては三浦アツが「復帰」するなら嬉しい気持ちが湧くのではなかろうか。

非常にデリケートな問題です。