「気を付けてね!」

高齢の方々が暮らす施設での仕事中、入居者の方にスタッフが諭すように繰り返す場面を見かけることがある。高齢者の転倒事故は、骨折、入院、リハビリ、と続いて生活の質の低下を招くことが少なくない。転ばないように、という緊迫感が日常的に伝わってくるのも頷ける。

 

 口にすることに慣れ切った思いやりの言葉のようではあるが、実際のところ気を付けてばかりはいられない。例えば車や自転車の運転なら気を引き締めて臨む、ということはあるが、歩くとき転ぼうとして転ぶ人はいないのだし、転ぶ瞬間は避けられない状況だった、というのが本人の言い分だろう。

 

「気を付けて歩かなければ」という意識が強ければ強いほど慎重になって転倒は避けられるだろう、と考えたくなるが、そうでもないと思う。人は意識しているほうに引っ張られがちだから、転んでケガをして周りに迷惑をかけることを恐れるあまり、そのことが再々頭の中を占めて緊張状態が続き、限界になってふと気が緩んだそのときに転ぶ、ということもあるのではないだろうか。

 

「気を付ける」という言葉の内側には、やや張り詰めた緊張感が感じられる。些細なことのようだが、その小さなこわばりが、自分の中にこびりついたままだとしたら、かえってそういった意識に引っ張られて疲労度が増し、かえって転倒に繋がるのでは?というのは考え過ぎだろうか。

 

 ある友人は、家族が出かけるときの声かけを「気を付けて」ばかりいては楽しくないではないかと気づいて、「気を付けてね」から「楽しんできてね」に変えたと言う。お互いに今日一日を楽しく過ごそうね、というエールのような感じで気に入っていると言っていた。

 なるほど、考えてみれば、声をかける側として出かける家族に望むのは「無事に帰ってくること」だ。相手への素直な気持ちを表すと「無事に帰ってきてね」という声かけが我が家には合っているような気がしたので、早速変えてみた。すぐに慣れてきて、言われたほうも「無事に帰ってくるね」と応じるようになった。慌ただしい朝の表情がほんの少しゆるむ瞬間から、軽やかな空気が流れ始める。

 

 人間関係の潤滑油としての言葉もあるだろうが、人に気持ちを伝えようとする言葉なのであれば、せめて自分が感じて納得でき得るところから丁寧に取り出したい。日常こそ大事にしたい。