🔸第1章|あの人は、なぜ突然来なくなったのか

 

その人は、誰よりも早く出社していた。


どんな仕事も嫌な顔をせずに引き受け、
遅れた分のフォローも、ミスの後始末も、まるで当然のようにこなしていた。

 

若手からは慕われ、上司からは重宝されていた。


「○○さんがいれば安心」


誰もがそう言っていた。

 

だからこそ、突然だった。

 


ある日、その人は職場に現れなくなった。


電話にも出ず、LINEも既読がつかない。


家族から会社に「しばらくお休みをいただきます」と連絡が入った。

 

その知らせを聞いて、私はなぜか、驚きよりも納得が先に来た。

 

「……やっぱりな」
どこかでそう思ってしまった自分がいた。

 


その人は、ずっと無理をしていた。


声に出さずに、空気を読んで、溜め込んで、
最後は何も言わずに“抜け落ちる”ように消えていった。

 

そして職場には、空いた穴だけが残った。


誰かが言った。

「○○さん、限界だったんだろうね」


「もっと頼ってくれればよかったのに」


「真面目すぎるのも考えもんだよな」

 

──私はその言葉に、どこか冷たさを感じた。

 


気づいていたはずだ。


いや、全員気づいていたのだ。


忙しそうにしていたことも、疲れていたことも。


誰よりも「やりすぎていた」ことも。

 

でも、“それで助かっていた”から見て見ぬふりをしていた。


私も、そうだった。

 


人は、自分にとって都合のいい善意に対して、
想像以上に無関心になる。


自分の業務が軽くなるなら、
無理している相手のことには目を向けない。

 

その構造が、日常の中で当たり前になっていく。

 


○○さんがいなくなった後、
しばらく職場はぎこちなくなった。


誰かが代わりをやるようになり、
「案外回るもんだね」なんて声も出るようになった。

 

でも私は、そう思えなかった。


彼が無理していたことで成立していた現場を、
“元からそうだった”ように扱うその空気に、吐き気すらした。

 


そして私は問うようになった。

 

「なぜ“やりすぎた人”だけが、こうして壊れていくのか」
「なぜ“やらない人”は、何も問われないのか」

 

これは、性格の問題ではない。


努力不足でも、甘えでもない。

 

明らかに“構造の問題”なのだ。


なのに、なぜ誰もそこに触れようとしないのか──

 


この疑問を出発点に、私は改めて働くということを考え直すようになった。

 

「働くこと」と「誠実さ」が、
なぜここまで噛み合わないのか。

 

「頑張ること」が「損をすること」になってしまうのは、なぜか。

 

そして、どうすれば“やりすぎずに壊れずに働ける”のか。

 

この問いを軸に、次章から“構造としての損の発生装置”を掘り下げていきたい。


 

 

🔸第2章|“やれる人”が潰れて、“やらない人”が守られる構造

 

「動ける人にばかり、しわ寄せがくるんだよね」


そんな言葉を、あなたも一度は聞いたことがあるかもしれない。

 

この職場に限った話じゃない。


どこに行っても、“やれる人”が最初に疲弊していく。

 

なぜなら、
「やらない人を責める構造」がないからだ。

 


組織では、目立って動いた人にだけ反応が返ってくる。


誰よりも早く気づく人、誰よりも先に動く人。


それは本来、評価されるべき行動だ。

 

だが現実には、
「動いた人が動き続けること」を前提に、現場が形づくられていく。

 

「やれる人に頼めばいい」


「○○さんがやってくれるだろう」


──そうして、やらない人は責任から免除されていく。

 


ここに、見えない逆転が起きる。

 

動ける人が“できるから”やる。


やらない人が“やらなくても責められないから”やらない。

 

結果、
やらない人のほうが、安全にその場に居続けられる構造が生まれる。

 

そして、“動く人”は静かに疲弊し、
“やらない人”は静かに守られていく。

 


私は長年その構造の中で働いてきた。


何度も腹を立てたし、
「なぜあの人は叱られずにすむのか」と理不尽を感じたこともあった。

 

でもやがて、こう思うようになった。

「この構造は“制度”ではなく、“空気”でできている」

誰かが明示的に命じたわけじゃない。


ただ、「黙っている人」が責められず、
「頑張った人」だけが前に出される。

 

それが積み重なって、
“動ける人にだけ負担が降りてくる構造”ができあがっていくのだ。

 


私が見てきた中で、一つだけ確かなことがある。

 

それは、「動いた人が沈黙すると、組織は崩れ出す」ということだ。

 

でも、誰もそれを口にしない。


なぜなら、「動ける人」が黙っても、
「やらない人」は変わらないからだ。

 

その沈黙を、誰も引き取らないからだ。

 


では、“やれる人”はどうすればよかったのか?

 

もっと無理をする?


もっと声を上げる?


それとも、最初から何もしないふりをする?

 

どれも違う気がする。

 

私たちは、“誠実に働くこと”と“無理をしないこと”を両立させる術を、
あまりにも教えられてこなかったのだ。

 


だから次章では、
「“やりすぎた人”が悪目立ちしてしまう職場の空気」について、
もう少し具体的に掘り下げていく。

 

同じように“できてしまったから潰れていった誰か”を見たことがあるなら、
きっと重なる話があるはずだ。


 

 

🔸第3章|「やりすぎた人」が“悪目立ち”する職場のメカニズム

 

「あの人、ちょっと頑張りすぎだよね」


「なんか空気読めてないというか……」


「張り切りすぎてて、見てるこっちが疲れる」

 

これは、かつて私が言われた言葉だ。


皮肉でもなく、嫌味でもない。


むしろ笑い話のように、和やかな会話の中で交わされた。

 

でも、それを聞いたとき、私は不思議な気持ちになった。

 

──なぜ、頑張っていることが「やりすぎ」になるのか?

 


私たちの職場には、
「このくらいでいい」という“空気の基準値”がある。

 

それはマニュアルにも明記されていないし、
上司が明言するわけでもない。


でも、全員がなんとなく共有している。

 

“それ以上”やると、「悪目立ち」するのだ。

 


たとえば、早く来て準備している人がいる。


毎日きちんと片づける人がいる。


後輩に丁寧に教えている人がいる。

 

その人の行動は、本来「称賛されるべきこと」だ。


だがあるラインを超えると、
なぜか周囲から距離を取られはじめる。

 

「すごいけど、そこまでしなくても……」


「真面目すぎるのって、逆に浮くよね」

 

そうして、“普通”からはみ出した人が、
徐々に“異物”として扱われていく。

 


これは、行動の問題ではなく「空気の防衛反応」だ。

 

ある人の誠実さや努力が、
周囲の“無関心”や“慣習”を際立たせてしまう。

 

だから、それを見た人たちは無意識にこう思う。

 

「このままだと、自分たちも頑張らされるかもしれない」

その恐れが、“やりすぎた人”への反発や違和感を生む。


つまり、頑張った人が嫌われるのではなく、
その存在が“自分の怠慢を映す鏡”になってしまう
のだ。

 


私は、そういう視線に何度もさらされてきた。

 

誰も面と向かって否定しない。


でも、どこかで「距離」を置かれる。


「そこまでしなくていいよ」という言葉で、線を引かれる。

 

やがて自分でもわかってくる。

「あ、今、自分は“浮いてる側”だな」と。

そして、自然と“出過ぎないように”自分を調整しはじめる。


そうしないと、チームにいられなくなるから。

 


本来、構造的に間違っているのは、
“やりすぎた人”ではない。


“やらない人がそのままで許される空気”のほうだ。

 

だが、その空気は可視化されず、言語化されず、
やがて「頑張った人のほうが悪い」という空気だけが残る。

 

これは、極めて静かで、しかし確実に人を潰していくメカニズムだ。

 


私は、問いを持つことをやめなかった。


自分を責めるのではなく、
構造を見つめ直すことで、かろうじて自我を保ってきた。

 

だがその過程で気づいたのは、
「誠実さ」と「適応力」は、しばしば相反するということだった。

 

そして、多くの人がその矛盾に苦しんでいる。

 


だからこそ、次章では、
「誠実さと責任感は、なぜ構造の犠牲になるのか」
その根本構造を掘り下げていきたい。

 

あなたがもし、“やりすぎた人”に心当たりがあるのなら、
それは偶然ではなく、必然の構造かもしれない。


 

 

🔸第4章|誠実さと責任感は、なぜ構造の犠牲になるのか

 

誠実であること。


責任を持つこと。


人に迷惑をかけないように努めること。

 

それは、人として「当たり前の美徳」だと教えられてきた。


だが、職場という構造の中では、その“美徳”が消耗品として扱われることがある。

 

それは、皮肉でも誇張でもなく、
実際に“誠実さ”が構造の犠牲になっている現場を、私は何度も見てきた。

 


誠実な人は、ずるができない。


ルールを守ろうとする。


納期を守る。


報告を怠らない。


周囲に迷惑をかけないよう、常に先回りして考える。

 

そして、「誰かがやらなければいけないこと」を、
自分の責任として引き受けてしまう。

 

その結果、
“誠実な人”が、職場の“補修材”にされてしまうのだ。

 


誰かが間に合わなかった分、
誠実な人が残業してカバーする。

 

誰かが見落としたトラブルに、
誠実な人が頭を下げて対応する。

 

誰かが逃げた責任を、
誠実な人が「私がやっておきます」と背負ってしまう。

 

なぜなら、放っておくことができないからだ。


崩れていく現場を見ると、どうしても黙っていられない。


それは、誠実な人間の“本能”のようなものだと思う。

 


だが、ここに構造的な罠がある。

 

それは、「誠実な人が動けば、構造は維持できてしまう」ということ。

 

誰かが崩れた構造を埋めてくれる限り、
組織は変わろうとしない。

 

つまり、
誠実な人がいることによって、“誠実でない人”が許され続ける構図が生まれてしまうのだ。

 


そして、悲しいことに──
誠実さは報われない。

 

むしろ、「当たり前」とされ、
やがて“感謝されること”すらなくなる。

 

「○○さんは頼りになるから」


「ちゃんとしてる人がいてくれて助かる」


──その言葉の裏には、「だから黙って背負ってくれ」という無言の強制がある。

 


責任感も同じだ。

 

責任感のある人間が、
「ミスを隠さない」
「誰のせいにもせず、謝る」
「自分が背負うべきだと信じて動く」

──その姿は、組織にとって“都合がよすぎる”。

 

だからこそ、
誠実で、責任感がある人ほど、
組織に搾取され、壊れていく。

 


私はそれを、自分自身の身をもって体感してきた。


そして今も、壊れずにいるのが不思議なくらいだと思っている。

 

でも、誠実さを手放すことはできなかった。


なぜなら、それを手放したら、
「自分でいられなくなる」と思ったからだ。

 


では、どうすればいいのか。

 

誠実に働きながら、壊れずに生きるには?


責任感を持ちながら、搾取されずに済むには?

 

その問いに向き合うために、
次章では「がんばりすぎた人が黙っていくときの、静かな孤独」に焦点を当ててみたい。

 

壊れてしまった人は、最後に何を思ったのか。


そして、私たちはそれを、どう受け止めるべきなのか──


 

 

 

🔸第5章|がんばりすぎた人が黙っていくときの、静かな孤独

 

「もう無理です」


「限界です」


──そう言って休職する人は、実は少ない。

 

本当に限界まで頑張ってきた人ほど、
誰にも告げずに、静かに姿を消していく。

 

それは決してドラマチックな出来事ではない。


連絡がつかなくなる。


いつのまにかシフトから名前が消えている。


机の上が片づけられている。

 

「辞めたの?」と誰かが聞いても、誰も正確なことはわからない。


それが“がんばりすぎた人の退場の仕方”なのだ。

 


私が知っている○○さんもそうだった。


毎日誰よりも丁寧に仕事をして、
誰よりも早く来て、最後まで残っていた。

 

愚痴も言わず、愚痴をこぼす人に寄り添い、
淡々とタスクをこなしながら、職場を支えていた。

 

ある日、彼は来なくなった。


上司から「少し体調を崩していて…」とだけ説明があり、
それきり戻ってこなかった。

 


あとになって、彼がしばらく前から
通院していたことを人づてに聞いた。


不眠、頭痛、動悸、意欲の低下──

誰にも見せなかったが、
その内側では、ずっと“限界のサイン”が出続けていたのだろう。

 

けれど、誰も気づかなかった。


いや、気づこうとしなかった。

 


私はそのとき、自分の無力さに強く打ちのめされた。

 

同じように働いていて、
「彼がきついはずだ」という直感はあった。


でも、忙しさや「自分のほうが大変かもしれない」という思いで、
目を逸らしていたのだ。

 

そして、彼は黙って去った。


最後まで、「誰かの迷惑になりたくない」と言わんばかりに。

 


誠実な人ほど、去り際が静かだ。


責任感がある人ほど、
「壊れたことさえ迷惑にしたくない」と思ってしまう。

 

その沈黙を、
私たちはどれだけ“聞き取ろう”としてきたのだろうか。

 


「無理してる?」と声をかけることは、
優しさであり、恐怖でもある。

 

もし「はい」と返ってきたら、
こちらが何かを背負わなければならないからだ。

 

だから私たちは、
誰かの“無言の限界”に気づいても、
そのまま流してしまう。

 

そして、構造は変わらない。

 


私がこの章で伝えたかったのは、
去った人の静けさを、誤解しないでほしいということだ。

 

彼らは決して、
「仕事が嫌いだった」わけでも、
「周りに失望した」わけでもないかもしれない。

 

ただ、
「誰も受け取ってくれないものを、渡し続けること」に疲れたのだ。

 


私たちは、もっと自分にも他人にも誠実であっていい。
誠実であるというのは、何もかも耐え続けることじゃない。


「これは無理だ」「助けてほしい」と言える強さもまた、
誠実の一つのかたちだと思う。

 

そして、
誰かが声をあげたときに、
黙ってうなずいてくれる人が一人でもいれば、
この構造は少しずつ変わるはずだ。

 


 

 

🔸第6章|それでも働き続ける僕たちは、どうすればいいのか

 

私はいまも会社にいる。


相変わらず現場に立ち、ルールと空気の狭間で働いている。


どこかで「あの人みたいに、黙って去れば楽なのかもしれない」と思ったこともある。


でも、私はまだ辞めていない。

 

──なぜか?

きっと、自分の中でまだ「何かを諦めたくない」からだと思う。


職場や社会の構造そのものは変わらなくても、
「自分がどう在るか」は、まだ自分で選べると信じている。

 


だがそれは、綺麗ごとではない。


正直なところ、私は「逃げられない人間」なのだと思う。


家庭がある、年齢もある、環境も簡単には変えられない。


もっと自由に動ける人を、うらやましく思ったこともある。

 

それでもここに残っているのは、
残るという選択肢の中で、何かを変えたいからだ。

 

構造の“中”でどう生きるか。
それが、私が問いたいことなのだ。

 


私たちには、選択肢が少ない。


頑張りすぎて壊れるか、
頑張らずに距離を置くか。


どちらも苦しい。

 

でも、本当はもう一つの道があると、最近気づいた。

 

それは──
「やりすぎず、壊れず、誠実さを守る働き方」だ。

 


どうやってそれを実現するか。


答えは単純ではない。


でも、以下のような行動の再定義が鍵になる。

 


■1.「手を抜く」ことを、“裏切り”と捉えない

「いつも完璧だった人」が突然できなくなると、
自分でも罪悪感に苛まれる。


でも、“手を抜くこと”は時に構造を壊さないための調整でもある。

 


■2.「それはできません」と言う勇気を持つ

断ること、引き受けないことは、
“不誠実”ではなく、“自己管理の表現”だ。


限界を超える前に「線を引く」ことは、むしろ社会的責任に近い。

 


■3.「黙って支える」から、「見える誠実さ」へ

誰も見ていないところで無理をしても、
構造は気づかない。


「自分はここまでやっている」と伝えることは、
誠実さの可視化であり、沈黙の対抗手段になる。

 


こうした“小さな軌道修正”ができるだけでも、
誠実に働きながら壊れないための足がかりになる。

 


私は、残ることを選んだ。


この構造のなかで、
どれだけ小さくてもいいから、問い続けていこうと決めた。

 

そして、「同じように働き続ける誰か」と、
どこかで静かに思いを交わせる場を持ちたいと願っている。

 

 


 

🔸第7章|やりすぎない勇気、立ち止まる誠実さ

 

「もう、やめておけばいいのに」


「そんなに頑張らなくても、誰も文句言わないよ」

 

──そう言われて、「じゃあ、やめよう」と即答できる人は少ない。


特に、誠実に働いてきた人ほどなおさらだ。

 

なぜなら、その“頑張り”が自分の存在理由のようになっているから。


周囲に迷惑をかけたくないという思いが、
知らず知らずのうちに、自分を縛りつけている。

 

でも今、私は思う。


頑張りすぎないこともまた、「誠実さ」の一つの形ではないかと。

 


これまで私は、「やりきること」が美徳だと信じてきた。


途中で手を引くのは、投げ出すことであり、誰かを困らせることだと。


だがその結果、何人もの仲間が静かに壊れていくのを見た。

 

それでも、私はずっと歯を食いしばっていた。

 

でもあるとき、ふと気づいた。

 

「このまま同じように頑張り続けたら、自分もあの人たちのように、黙って壊れてしまう」


 

そこから私は、少しずつ“立ち止まる勇気”を持つようになった。

 

たとえば──
・頼まれた仕事を、その場で抱え込まずに「少し考えさせてください」と言う
・「それは私の役割ではありません」と、きちんと伝える
・調子が悪い日は、自分を優先して早退する

それらは一見「逃げ」のように思えるかもしれない。


でも実は、自分を守るための“健全な自己主張”なのだ。

 


職場の構造は、「沈黙する人」ほど消費される。


逆に、「線を引ける人」には、負担がかかりにくい。


だからこそ、黙って壊れていくのではなく、立ち止まって可視化することが必要だ。

 

そしてそれは、ただの戦術ではない。

 

それこそが、
「自分の誠実さを、構造から守る」という行為だ。

 


“やらなかった後悔”より、“やりすぎた後悔”のほうが深く、重い。

 

だから私は、こう思うようになった。

「立ち止まることを、恥だと思わないでいたい」

それが、自分を大切にするということだ。


それが、誰かに静かに伝わる誠実さの形かもしれない。



 

🔸第8章|構造を疑うことは、疲れたあなたを守る最初の一歩

 

疲れていた。


何かを変えたいと思っても、現場は変わらなかった。


期待して動いて、報われなかった。


声を上げて、空気を読めと言われた。

 

それでも私は、問い続けた。


なぜ自分ばかりが、と思いながらも、
それを言葉にすることさえためらっていた。

 

でも今ははっきり言える。


「疲れの原因は、あなたの努力不足ではない」


「構造そのものが、人を疲れさせるようにできていることがある」と。

 


“構造を疑う”という行為は、
誰かを責めることではない。


組織を攻撃することでもない。

 

それは、
「自分の誠実さを、消耗品にしないための思考」だ。

 


たとえば──

・なぜ「できる人」にばかり仕事が集まるのか?
・なぜ「黙って働く人」が軽んじられるのか?
・なぜ「報われない努力」がこんなにも多いのか?

この問いを持つことで、はじめて見えてくる景色がある。


「自分が悪い」と思い込まされていた苦しみの根に、
組織の仕組みや文化、価値観があると気づく。

 


問いを持つことは、孤独だ。


周囲は「そんなこと考えなくていい」と言う。


「割り切ってやれ」「深く考えるな」と言われる。

 

だが、
その“割り切れなさ”こそが、あなたの誠実さだ。

 

そして、それがあったからこそ、
あなたは壊れながらも、ここまで踏みとどまってきたのではないか。

 


私は思う。


疲れを癒す薬は、休息だけでは足りない。


自分の努力がどこに吸い込まれていったのか。


何に利用され、どこですり減っていたのか。

 

それを「構造の目」で見つめ直すことが、
回復の第一歩になる。

 


問い直すことは、自分を守る行為だ。


その問いを持ったまま、働いていい。


日々のなかに、“思考という鎧”をまとってもいい。

 

それは、誰かに見せるためではなく、
自分が壊れないための“小さな革命”だ。

 


 

 

🔸第9章|もしあなたにも心あたりがあるなら──noteで少し続きを

 

あなたはこれまでに、
“やりすぎてしまった自分”に気づいたことがありますか?

 

自分だけが遅くまで残っていた日。


誰にも頼まれていないのに、周囲のミスをカバーした日


「ありがとう」の一言もないまま、翌日も黙って同じ作業を繰り返した日

 

もし、そんな記憶が少しでもあれば──
あなたはきっと、誰かのために静かに闘っていた人です。

 


このブログで書いてきたのは、
「頑張ること」が損になりやすい社会において、
それでも思考と誠実さを手放さずに働いてきた人たちの記録です。

 

私自身もその一人であり、
構造のなかで、壊れずに生きようとしてきた凡人です。

 

でも、ひとりでは限界がある。


だから私は、こうして言葉を綴り始めました。

 


問いを持つことは、孤独です。


でも、誰かとその問いを“交差”できたとき、
思考はただの愚痴や疲弊ではなく、
「明日を変えるための力」になる。

 


この続きは、noteに綴っています。


もう少し深く、静かに、
“問いを持ち続けるための思索”を書いています。

▼noteはこちら

 

 

同じように「問いながら生きている」誰かと、
言葉でつながれたら嬉しいです。

 


さらに、現在準備中ですが──
【PARK】という思索者向けプラットフォームでも、
“会社や社会の外側に、小さな対話の場”を開こうとしています。

 

PARKリンクはこちら⇒

https://park.jp/?outer_ref=INV-N1YKVT

 

 

PARKは、発信や表現を通して、
自分の思考や働き方、生き方を見つめ直す場です。


「疲れた人」が、「考えたい人」として再起動できるような、
そんな静かな空間を構想中です。

 

準備が整いましたら、noteやXでもご案内させていただきます。


ご関心ある方は、noteをフォローしておいていただけると嬉しいです。

 


がんばりすぎたあなたへ。

問いを持ち続けることは、弱さではなく武器です。


それを手放さなかったあなたの時間に、
少しでも寄り添えたのなら、これ以上の喜びはありません。

 

またどこかで、言葉で会いましょう。

 


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