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▼noteでも静かに問いを深めています
アメブロでは日常の構造や思索を綴っていますが、
noteではもう少し内省的に、働くこと・誠実さ・構造との向き合い方について書いています。誰かの答えではなく、自分の問いを持ちたいと思う方へ。
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▼PARKという場にも、関心を持ち始めています
「疲れたけれど、考えることはやめたくない」
そんな人が、自分の問いを大切にしながら、
静かに表現できる場所として──最近知ったのが、PARK(パーク)という発信プラットフォームです。
まだ私は利用していませんが、
自分自身の思索や言葉と向き合う場として、今後ゆっくり関わっていけたらと思っています。▶ PARK公式サイト
https://park.jp/?outer_ref=INV-N1YKVT
では、これより本編に入ります。
🔹第1章|「正しさ」が息苦しさになる日
「それは、あなたが正しすぎるだけだよ」
ある同僚にそう言われた日、私は言葉に詰まった。
責められたわけではない。
むしろ、労いの言葉のつもりだったのだろう。
だが、私はその言葉に、ひどく傷ついた。
正しさは、褒められるものではなかったのか?
正しさは、誠実に生きるための指針ではなかったのか?
気づけば私は、
“正しくあろうとすること”自体が息苦しさになっていた。
ルールを守る。
誰にも迷惑をかけないよう気を配る。
不正や矛盾に気づいても、感情的にならず冷静に指摘する。
誠実に、筋を通す。
それだけのことだった。
でも、
「そういう人」が浮いていく職場の空気を、私は何度も見てきた。
正しさが空気を乱す。
正しさが面倒を呼ぶ。
正しさが、居心地の悪さをつくる。
そして気づけば──
「正しいことが、厄介なこと」になっていく。
なぜこんな逆転が起きるのか。
なぜ「正しい人」が、組織の中で疲れやすく、壊れやすいのか。
なぜ誠実な人ほど、声を失っていくのか。
それは単に性格の問題ではない。
構造の問題であり、組織の期待と誤配の問題だと、私は思っている。
🔹第2章|“誠実な人”が抱える「暗黙の役割」
いつからだろうか。
誰かがミスをすれば「ごめん、お願いできる?」と頼られ、
納期が危うければ「助けてもらえますか」と声がかかる。
それは、信頼の証のようにも見える。
だが実際には──誠実な人にだけ割り当てられる“見えない仕事”が、
構造的に発生しているように思う。
■ 「ちゃんとしてる人」に仕事が偏る構造
「あなたがやったほうが早いでしょ」
「あなたなら安心だから」
この言葉の裏には、
「他の人には任せられない(けど改善する気もない)」という怠慢がある。
-
怠けている人が免除され、
-
誠実な人が「補正装置」として使われる。
そのうち、誠実な人は自然と「やらないと回らない」という意識を持ち始める。
だがそれは、役職でも評価でもなく、ただの“構造的依存”だ。
■ 「あなたしかできない」は美談ではない
「あなたしかできない」は、かつては誉め言葉だった。
けれど今では、それが孤独な拘束の始まりだと気づく。
-
断れば、空気を壊す。
-
引き受ければ、沈黙のルールが続く。
そのジレンマのなかで、
誠実な人は徐々に「無理を常態化」していく。
■ 担ってしまう“4つの暗黙の役割”
誠実な人が、意図せず引き受けてしまう役割は、たとえばこんなものだ
-
代弁者:「みんなが思ってることを言ってくれてありがとう」
→結果、責任は個人に返ってくる。 -
調停者:「あなたなら、うまく回してくれるよね」
→表面を整えて、誰の本音も解決しない。 -
防波堤:「ちょっとキツいかもしれないけど、お願い」
→その“ちょっと”が毎回、自分を削っていく。 -
尻拭い役:「何かあっても、あなたがいれば安心」
→つまり、最初から問題発生を想定されている。
気づかないうちに、
組織の中で「便利な正しさ」だけが残されていく。
そしてその人が疲れてきたとき、誰も気づかない。
「いつも通りちゃんとしてるから、大丈夫でしょ」──
そうやって、限界まで使われる。
正しさとは、本来、自分の内側にあるものだったはずだ。
でも組織の中で、それが「調整装置」や「安心材料」に変質していく。
私は、そのことにもっと早く気づけばよかったと思っている。
ただ、今なら言える。
「正しい人」は、壊れやすい。壊れるまで気づかれにくい」
🔹第3章|正しさの軸が、周囲とズレていくとき
「真面目すぎるよ」「考えすぎじゃない?」
それは、あなたを心配する言葉のようでいて──
“もうやめてくれ”という空気の婉曲表現でもある。
かつて私も、何度か言われたことがある。
誰かがミスをして、それを注意したとき。
理不尽な業務フローについて疑問を投げかけたとき。
上司の指示に従いつつ、現場との矛盾を調整しようとしたとき。
どれも怒ったわけではない。
冷静に、穏やかに伝えたつもりだった。
でも返ってくるのは、
「空気を悪くするな」「そんなに細かくなくていい」という反応。
私は気づき始める。
自分の“正しさの基準”が、周囲とズレ始めていることに。
■ 「黙っていた方が楽」は、誠実な人ほど抱く矛盾
誠実な人ほど、“このままでいいのか”と考えてしまう。
でもその問いが、周囲にとっては「面倒」になる。
-
黙っていれば、楽だったのに。
-
流していれば、波風は立たなかったのに。
そう思われていると気づくとき、
あなたの中で“正しさ”が“孤立”へと変わっていく。
■ 正しさが「浮く」とき、構造は“ズレた方”を守る
組織は、声の大きい人を選ぶ。
空気を壊さない人を残す。
黙って従う人を評価する。
つまり、
「問いを持つ人」より、「黙って使われる人」が優遇される構造になっていく。
あなたが言った「これは変だ」という一言は、
たとえ正しくても、“変人の問題提起”にすり替えられる。
私はそのズレを放置した結果、
何度か“誠実疲労”のような状態に陥った。
誰かを守るつもりで行動しても、
組織は構造として変わらず、
むしろ「お前がやってくれるならそれでいいよ」という空気だけが強化されていく。
「正しいこと」が「正しく扱われない」──
そんな空間で、あなたは今も働いていないだろうか。
でも、だからこそ私は思う。
正しさが浮くのではない。
むしろ、構造の方が沈んでいるだけだ。
自分を責めないでほしい。
ズレているのは、あなたの誠実さではない。
🔹第4章|構造が“正しさ”を逆手に取るとき
「あなたがやってくれるから助かるよ」
「言わなくても分かってくれると思ってた」
「そういうところ、ほんと尊敬してる」
──それは感謝の言葉だったかもしれない。
でも私は、ある時から気づき始めた。
“正しさ”が組織にとって「都合のいい存在」にされていく構造に。
誠実な人間は、「自己裁量」があるように見える。
だが実態は逆だ。
-
自分で背負い、
-
自分で折り合いをつけ、
-
自分で黙って処理する。
そういう人ほど、
構造にとっては「扱いやすくて壊れやすい部品」になる。
■ 正しさを言語化する人は、構造にとって“不都合”になる
「こうあるべきだ」と声に出す人は、
組織にとっては、潜在的な“反乱分子”になる。
だから構造は、“正しすぎる人”に対してこう動く。
-
表面上は評価するが、権限は与えない
-
相談されるが、決定には関われない
-
信頼されるが、守られない
つまり、
「必要だけど、近づきすぎたくない存在」にされていく。
その結果、正しさは「便利な力」として吸い取られ、
人間性としての重みは、そぎ落とされていく。
-
意見は求められるが、責任は押し付けられる。
-
援護はされず、盾にはされる。
-
共感されず、沈黙を求められる。
この状態で、壊れないほうがおかしい。
■ 正しさが「責任の押し付け先」になる瞬間
私はあるとき、こんな言葉をかけられた。
「◯◯さんがそう言うなら、それでいいよ」
「まあ、責任は◯◯さんが持つなら……」
そのとき、ハッとした。
いつのまにか、自分の意見が“責任の逃げ道”にされていたことに。
周囲は安心する。
「◯◯が言ってくれたから大丈夫」と。
だがその「大丈夫」は、
“他の誰も責任を取らない”ことの保証になっていた。
正しさは、剣であると同時に、盾にもされる。
そして、盾にされた側だけが、沈黙のうちに消耗していく。
だからこそ、次章では考えたい。
それでも私たちは、なぜ正しさを手放さないのか。
誠実であることをやめずにいる理由は、どこにあるのか。
🔹第5章|それでも、正しさを手放さない理由
正しさを持つことで、私は何度も疲れた。
不器用にぶつかり、
見えないプレッシャーを引き受け、
ときには「正しいだけの人」として煙たがられもした。
それでも──私は正しさを捨てなかった。
それは、強さではなく「弱さ」だったのかもしれない。
逃げ道を選ぶことができなかった。
言い訳ができない性分だった。
誰かを見捨てる自分に、耐えられなかった。
でもその“弱さ”こそが、
自分自身を、自分として保つための芯だった。
■ 正しさは「自分の輪郭」だ
正しさは他人のためではなく、
「これが自分である」という証のようなものだと思う。
自分で自分を裏切らないために。
自分の目で見て、自分の声で考えたことに、
責任を持つために。
それがたとえ、
周囲から「重い」と思われたとしても。
「融通がきかない」と言われたとしても。
正しさは、自分の中の秩序であり、
踏みとどまるための小さな鎖だった。
■ 手放せないのではない。手放さないと決めている
「正しさに縛られているのでは?」と聞かれたことがある。
その問いに対して、私はもう迷わずこう答えられる。
「縛られているのではなく、選んで持っている」
それがなければ、
私の言葉も行動も、ただ流されるだけになってしまうからだ。
誰かの意見に迎合して、
空気に合わせて笑って、
都合よく立ち回って──
そうやって“自分でなくなる”ことが、
何よりも怖かった。
もちろん、柔軟さは必要だ。
譲るべきところ、引くべきところもある。
でも、それでもなお、
「譲ってはいけない場所」を持っているかどうかが、
この社会で壊れずに生きる鍵なのではないかと思う。
正しさは、摩耗する。
でも、燃え尽きることはない。
あなたの中で、まだ灯っているのなら──
その光は、決して無駄ではない。
🔹第6章|あなたの“正しさ”は、誰かを救っている
あなたが守ってきた「筋」。
あなたが譲らなかった「基準」。
誰も気づかないところで黙って貫いた「姿勢」。
それらは──
あなた自身を守ると同時に、
“誰かの心を壊さないための最後の防波堤”になっていたかもしれない。
誠実な人が黙って引き受けることで、
声をあげられない人が沈まずにすんだ。
構造の理不尽を目の前で指摘したことで、
誰かの「おかしい」という感覚が肯定された。
あなたの正しさが、
“他人の中の正しさ”を消さずに済ませた可能性は、きっとある。
■ 正しさが「効率」や「成果」にならなくても
現代の職場や社会は、
「結果」や「効率」で価値を測りたがる。
でも、正しさは数字にならない。
静かすぎて、評価にもならない。
むしろ「融通がきかない」「重い」と扱われる。
それでもなお、
あなたが手放さなかった「それ」は、
誰かの“最後の支え”になっている。
■ 正しさは、必ずどこかで誰かに届いている
報われなくても、
認められなくても、
言葉にされなくても。
誠実さや正しさというのは、
“その場にいなかった誰かの心”にさえ届く力を持っている。
それが、真面目に働き、思考し、問い続けた人の残すものだと思う。
私はこの文章を、
報われなかった人のために書いています。
疲れた人のために、ではなく。
疲れながらも問い続けている人のために。
あなたのその「正しさ」は、
無力ではない。
誰にも気づかれなかったとしても、
少なくとも、私はそれを「意味あるもの」として言葉にしたい。
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「思考」と「言葉」は、
誰かの記憶であり、問いの記録です。対話を望む方と、どこかでまた交差できますように。



