風と傷跡に誘われて

風と傷跡に誘われて

日本のことを中心に。

Amebaでブログを始めよう!
震災後の社会と呼ばれるいまを生きている人たちが本当に震災後を生きているのか考える。目的はひとつ、使い古され汚され擦り切れてしまった平和のために。

震災後に日本は変わった、震災後でも日本は変わらない、などという言明が蔓延っている。震災から4年という歳月が経過した今、果していつ震災が終焉を迎えたというのか。本震が収まったときか、原発「事故」が終息したと野田前首相が宣言したときか。どれも欺瞞だ。何も終わってはいない。原発「事故」終息宣言を安倍現首相が撤廃したからではない。こう言おう。忘却は甘い。ゆえに人は忘れる。何も終わっていないことをも忘れる。だから人は叫ぶ。忘れてはいけないと。しかしこのシュプレヒコールがどんな意味を持つだろうか。忘れてはいけない、忘れてはいけない。数多の人間が死んだことを? 原発を制御できなかったことを? 違う。ではいったい何を? 忘れてはいけないというとき、目的語はいつも漠然とした経験である。もちろんそうはなり得ないナラティブもあることに疑いを挟むつもりはないが、ここではシュプレヒコールについて述べているのである。結局のところ、忘れてはいけないという言葉の後ろで、思考は鼾をかいて眠っている。忘れてはいけないと合唱するのならば、何故人は忘れるのかを考えなければならない。何故人は忘れるのか? そういうふうにできているとしか言いようがない。人は忘れる。それは避けられない。そこには悲しみと旨みが混在する。ただしそこに恥があったとしたらどうなるか……?

私は被災地という呼び名が嫌いだ。この名には問題を切り分けようという外からの意志が煌々と燈っている。被災地の人はかわいそうだ、被災地の農産物を食べよう、これをヒューマニズムだとか人間主義だとか呼ぶのか知らないが、被災地という名を用いるときには、本人が意識しているかどうかに関わらず、自分自身は被災していないあくまで外部の人間であるという境界線が生ずる。そんなのは当たり前のことだ、なぜならば、私は家族や友人や財産を失うという凄惨な経験をしていないのに当事者として語るなんて言語道断であるからだ、という非難があるかもしれない。しかしここにはなにか言い知れぬ違和感がある。その正体は何か。ここからこの記事の主題へと導かれる。すなわち、我々は本当に震災後の社会に生きているのか。ただしすぐに接続する必要はない。焦らず迂回しよう。急ぐ必要はないのだから。それにまだ、恥、が語られることを待っている。

ところで死者の言葉を代弁するなどということが可能だろうか。そんなわけはない。死んでしまったのが、親であろうと子であろうと親友であろうと恋人であろうと、その人の言葉を代弁することはできない。ただし、悲観せずにこう言いたい。死者の声は聞き取り続けなければならないと。それは日常のざわめきの中に微かな耳鳴りを聴くようなことかもしれない。それでもやらなければならない。何故か。それは死者が間違いなくそこにいたことを教えてくれるからである。こんな書き方をすると嫌悪感を示す方もおられるかもしれないが、いわれのない誹りは放っておいて続ける。

「私は生まれた」「I was born」「Je suis né(e)」当たり前のように受け身である。連綿と続くこの営みの一端を死者が担っていた、そして担っていることは疑いようがない。このことが忘れ去られている。我々は人類のなかの「一」である。だからみんな繋がっているだなんてそんな下らないことは言わない。「かけがえのない人間」という表現から暴力としか呼びようのない自由を抽出してきた私たちが認めなくてはいけないこと、それがこの人類のなかにあるこのちっぽけな「一」である。そして死者もまたこのちっぽけな「一」である。しかしそれは、私を生み育てた一かもしれないし、私が生み育てた一かもしれない。私とわかり合った一かもしれないし、私と愛し合った一かもしれない。私と関係を結んだちっぽけな「一」なのだ。この関係があってはじめて自我が現れる。そんな私達がその自我に立脚して誰か、あるいは何かに裁きを下すことができようか。憎いから復讐する、腹が立ったから殺す、この論理の礎石にある自我が自分のものであるなどという主張はあまりにも頼りないものである。それにも関わらず、他者に裁きを下そうなどというのは臍が茶を沸かす。死者たちの声を真摯に聞き取ること、まずはそこから始めなければならない。人類の営みは続いてゆく。永遠ではなくとも私達の時間感覚からすれば永遠に。永遠の中で死者は教えてくれる、次の世代が誕生することを、そのまた次の世代が誕生することを、そしてそのまた……もうやめよう。つまりはこういうことだ。過去に私達を胚胎した彼女たちは教えてくれる。恥を知ることを。

私達は原発について何も知らない。知らないものを放っておいたから「事故」が起きた。いい加減にしよう。あれは事故などではない。私達の惰性の帰結である。原発は健全な経済活動のために必要であり、人間が生きていくために必要不可欠なものである。嘘をつけ。いつのまにか消えた計画停電はどこへいった。大地震という自然災害が起こらないようにすることは決してできない。ならば千年に一度の大地震などという嘘をつかずに、それが今後も起こり、今回と同程度、あるいはそれ以上に放射性物質を撒き散らすと考えておいたほうが、身のためではないか。だれの? もちろん未来の世代のである。今後百年間で同規模の災害が起きなかったとしてそれがどうだというんだ。二百年後の世代はどうなる? 三百年後は? そのころには原発に変わってより安全なクリーンエネルギーが使われているはずだ? 嘘をつけ。ならばなぜ今は使われていないのか。原発を使わなければならない理由を創り上げてきたからではないか。電気の安定供給などではない、それは間違いなく冷戦と結び付いている。

原発推進派・反対派、ついでに左派・右派、タカ派・ハト派、すべてどちらでもよろしい。どちらでもよい、すなわち「Cela nous est égal」私達にとってはどれも等しい価値しか持たないはずだ。派閥などというものは争いを生みだすだけの装置に過ぎない。そんなものにかまけている暇があるなら、歴史を学んだ方がよっぽどいい。惰性に身を委ねず考えなければならない。死者の声により耳を澄まし、恥を知るためには。原子力を放っておいたことは私達の恥である。原子力は私達の住む場所を壊す。地盤の奥深くまで徹底的に。そこは私達だけが住む場所ではない。そこには住む。犬、猫、小鳥、蟻、蝶、松、桜、名も知らぬ草、生きとし生けるものすべてが。そして私達の子どもたちが。

ところで親が知ったら悲しむという言い回しが日本語にはあるが、親のことなんか知ったことではないという人が増えている気がする。老いも若きも。親からもたらされる恥の力が弱まっている証拠であろう。すべての責任をわがままな子どもに帰することはできない。親を親たらしめる儀礼がないのだから。こんなことを言わなくてはならない現状が痛々しいが、ここで立ち止まるわけにはいかない。では死者は本当に恥を教えてくれるのだろうか。死者には葬儀がある。葬儀の意義とは、死者に死を与えることと、生者が他者の死を位置づけ関係づけることにある。死者は自分が死んだことがわからない。なぜなら人間は永遠に死にゆく存在であるからだ。人は自分が死んだとは絶対に言えない。ただ死にゆく自分として消えてゆくのである。その人の死を認めるのは他者であり、死んだということを生者が死者に教えるというのがまずもっての葬儀の意義である。一方で、葬儀を通して生者の側でも死者を死者として位置付ける可能性が開かれる。そうすることで、死者との対比としての自分の定点が確立され、死者に「あなたはそれであるところのそれである」ということを教えられる。それは法であり契約であり約束である。それを破ることは定点を見失うことであり、人はそれを避ける。そしてその定点では死者の声を聞くこととなる。そこで連綿と続く人類の一であることに気づき、これから到来する世代のために恥を教わることとなる。

死者の声を聞かねばならない、子どもたちのためにも。改めてここで問いたい。震災は何を破壊したか。いや、こう問わねばならない。震災は何を破壊し続けているか。すべてを。私が私であるという明証性の不確かさを露わにしながら。震災は確かに過去形で語ることができる。地震と津波と原発が生きる者たちの命と財産を奪った、と。しかしその爪痕が今でも残っているのではなく、猛威をふるい続けている、膿んだ傷跡として。私が私であるということはそれほど確かなことだろうか。そこにはアイデンティティの危機などという心理学用語を超えた何かがある。いや、そこには何もなかったのだ。自我は幻だ。震災以前から自我は揺れていた。不安はあった。ところがいまや自我の残像さえもない。私達はあまりに多くのものを失った。私達はあまりに多くのものに裏切られた。私達はあまりに多くのことを隠された。外傷は人間を世界から切り離す。切り離された人間は自我という幻にしがみつこうとして、その手は空を切る。空を切った手は他者を取り込もうと手を伸ばす。他者はあっけなく避ける。あるいは他者に飲みこまれようとする。他者はあっけなく踵を返す。その連続の中に我々はいる。自我を打ち立てるということをひとりで達成しようなどということは、はっきりいて無駄である。だからといって他者と同化することなどできない。一方で、他者と関係を結ぶことが不可能であるというシニシズムと呼べそうなものに呪われている私達もいる。他者は他者としてそこにいる。どちらの意味においても他者が他者であるということがますますわからなくなっているいまの時代に生きている私達が、震災後の社会に生きているなどとどうして言えようか。自戒も籠めて「我々は震災のさなかに生きている」と表したい。

ではどうすれば私達は震災後の社会へと移行できるのだろうか。その可能性を探るために、ここで先日起こった「イスラム国」(イスラムを冠するべきではないという国内外の批判はあるが、これまでに提案されたどの名称も納得のいくものではないため、ここでは括弧付きの「イスラム国」と統一することとする。)による日本人人質事件へと話を展開する。「転換」ではなく「展開」であることに注意いただきたい。

この事件は日本国内で数多くの議論を巻き起こし「た」が、ここで注目するのは言葉である。本件を機に、イスラム教と「イスラム国」を分離するために奔走する人たちがいた。しかしイスラム教徒は危険な思想の持ち主ではないと喘いでも、震災のさなかにあるこの日本においてその悲痛さは届かない。それは言葉を紡ぐことへの不信感に直結する。はっきり言おう。言葉は意味を失っている。この国では、イスラム過激派とイスラム原理主義組織というふたつの呼称はまるで同じもののように扱われる。しかし本来の字義は異なる。過激派とは読んで字のごとく、自分たちの思想が抑圧され糾弾され裏切られた場合には、いかなる過激な手段をもってでも抵抗する人々のことであり、一方、原理主義とは、イスラム教に関わらず、聖典や経典といったすべての行動や価値の根拠となるテクストを忠実に再現するべきだと主張する思想のことである。このことはいくら強調してもし過ぎることはない。なぜなら同じように扱われているこのふたつの組織を批判するにあたり、必要とされる論理は全く異なるからである。このように言葉が意味を失うと何を批判すればよいのかまるでわからなくなる。何かに真剣に向き合うためには言葉の復権が必須である。そしてそれが直接、批判するのがより困難であろう原理主義を改めることにつながる。

イスラム教の聖典であるクルアーン(コーラン)は西暦650年(我々日本人にとってなじみ深いという理由だけでここでは西暦表記している。)頃に編纂された。今から千年以上前のことである。ただこれだけの理由で、古いものに縋り続けるイスラム教徒というレッテルを押しつけようとしてきた西洋の偏狭な自己愛は断固として糾弾されねばならない。西洋社会はイスラム社会と比べて近代化などしていない。さらに言えば、近代と呼び得る文化圏などこの世界には存在しない。科学の発展、工場のオートメーション、金融のグローバル化、これらが近代化の証じゃないかと鼻息荒く捲し立てる輩は放っておこう。これらが本当に近代化と呼べるのか考えることなしに喚いているだけなのだから。原理主義が批判されて然るべきなのは古いなどという点ではない。テクストの解釈が介入していない点である。それは絶対的な存在に身を委ねることである。それは忘我であり、母の胎内に立ち戻ることであり、自殺である。クルアーンに従って行動することを批判しているのではない。クルアーンを解釈しないことが問題なのだ。なにもそれはイスラム原理主義だけに限った話ではない。キリスト原理主義だって存在するし、自己啓発本原理主義だって存在する。逆説的に聞こえるかもしれないが、それはそのテクストを信用していないということである。なぜならその人は読んでいないのだから。

言葉やテクストに対する信頼が薄れているのは、イスラム原理主義者や日本人だけには止まらない。このことは世界中で同時的に進行している。言語はコミュニケーションの手段でしかないとよく言われるが、ではテクストはどうだろうか。ここまで定義を確認することなくテクストという語を用いてきたが、テクストとは何か。語源を呼び出すまでもなくそれは織り成されたものである。テクストである、小説、詩、ダンス、音楽、絵画、彫刻、これらはすべてコミュニケーションの手段でしかないのだろうか。そんなわけはない。そしてテクストは藝術に留まらない。街並み、ジェスチャー、何気なく描いたらくがき、誤解を恐れずに言えばテクストとは世界に与えられた傷痕である。私達は傷痕を世界に対して与えているか、そして何よりも傷跡を解釈しているか。テクストが蔑にされているということはどういうことか。織り成すことができない、織り成されたものに一瞥さえもくれない、これはどういうことか。それは自己を世界に対して刻むことができない、他者が刻んだ印を無視するということに他ならない。テクストはコミュニケーションという語から零れ落ちる関係性を掬いあげるどころか、一瞬のうちに迸る閃光の一撃を秘めている。それを蔑にしていい理由などどこにもない。私達はそれを解釈せねばならない。それが死者の声を聞くことである。むなしく谺する平和という語を蘇生するために。

今後ブログという場で言葉を紡いでいくにあたって、ひとつ、無意味な先取りの言い訳を。先日おまえの書く文章は「宗教」のようだという批判を受けた。彼がいう宗教とは、仏教やキリスト教、イスラム教といった世界を形作ってきたものではなくカルト教団のようなものだとのことだった。何をもってそう言ったのだろうか。そもそもカルトの語源はラテン語の「崇拝(cultus)」という語まで遡る。何かを崇拝している匂いを文体、あるいは、エクリチュールから嗅ぎ取ったのであろうか。しかし現実で非難されているカルト教団が並べ立てる欺瞞とは断じて違う。オウム真理教は教団員に何を教えたか。人は必ず死ぬということを吹き込んだ。その「絶対的」事実に耐えられない人間が起こした凄惨な出来事を知らない「大人」はいない―このふたつの括弧を取り去るわけにはいかない。ナチスも同様だ。ヒトラーの目的、それは集団自殺だ。優生主義に基づいて劣った人間を殺戮することで最終的な自らの死を歴史の終焉と結び付けようとした。こんな愚かなことに類することを書いているつもりは毛頭ない。強いて言うのならば、死ぬことができない人間がいかに生きてゆくことができるか、その可能性を書いている。いや、書かされているといったほうが正しい。書きたいと思ったことを書ける人間がいるだろうか、書きたいと思わされずに内発的に書きたいと思える人間がいるだろうか。ロビンソン・クルーソーがどこにいる。少なくともネットユーザに彼と同じ環境に置かれた人はいない。長々と書いてきたが、ここまで書いてきた批判の対象から私自身を除外するつもりはない。崇拝とは呼べないまでも金科玉条として私が常に信じなければならないと信じていることがあるとすれば、それは「他者は他者としてそこにいる」そのことだけである。だが時にそれを信じられなくなることもある。だから私自身を絶対に除外しない。これはもしかしたら世俗化された宗教と呼びうるのかもしれない。しかしこの宗教は、自由、権利といった西洋から輸入した概念をそのまま受け入れることはせずに、言葉という主人のもとで育った解釈者として施した操作のうえに作り上げられた血であり肉である、と叫ぶことは、震災のさなかに生きる我々にとってはあまりにセンチメンタルなことだろうか?
フランス語の動詞は3つの法に従って、その形を変える。

1.直接法
2.条件法
3.接続法

ふむふむ、ここまでは知ってるぞ。だがしかーし、曖昧な点がいくつもあるので時制とあわせて総復習してみた。
きょうはとりあえず直接法だけメモしておく。


1.直接法

・直接法現在

いちばんオーソドックスなやつ。Je t'aime.とか。

・直接法複合過去

助動詞(avoirかêtre)+過去分詞。
これも問題ない。Hier, je suis allé à la picine.とか。

・直接法半過去

複合過去との使い分けはいまだによくわからんけど、terminaisonはtrès simpleなのだ。
例外はêtreだけ・・・のはず。

j'avais
tu avais
il/elle avait
nous avions
vous aviez
ils/elles avaient

・直接法大過去

これは主節が過去で、従属節がさらに昔のときとかに使うやつ。
助動詞(avoirかêtre)の半過去形+過去分詞。

je croyais qu'il avais déjà sorti.(あってるのかしら。。)

・直接法単純過去

はい、でました。口語では使わないので無視、、と言いたいところだけど、小説なんかを読んでいるとちょいちょい出てくるので、êtreのconjugaisonだけメモしておく。
ちなみに口語では複合過去を使うポイント「など」で、この単純過去は使うらしい。

je fus
tu fus
il/elle fut
nous fûmes
vous fûtes
ils/elles furent

もうここまでくると、フランス語による学習者へのいじめの領域に入っていますね。

・直接法前過去

いい加減にしてください、と言いたい。
これも文語でのみ使うそうな。大過去の文語版みたいなものだけど、いろいろ違いもあるとのこと。違いは知りません。
助動詞(avoirかêtre)の単純過去形+過去分詞。

・直接法単純未来

ちょっと一安心。
例外はあるものの、だいたいのterminaisonは原則にしたがう。

je serai
tu seras
il/elle sera
nous serons
vous serez
ils/elles seront

・直接法前未来
前過去にくらべれば楽。
助動詞(avoirかêtre)の単純未来形+過去分詞。
未来完了なんかに使われる。

J'aurai fini mon travail quand il arrivera.
とか。



ここに書いてあることは間違っている可能性大だけど、次回につづく。
第2回は条件法。

ばいちゃ。