古墳残土説を斬る その2 | 古墳探訪記

古墳探訪記

関東中心に古墳を巡っています。現存している古墳、削平してしまった古墳を含め、すべて写真で記録していきます。時々、神社や地形についても触れていきます。1000年以上も続いた古墳のある風景、後世に残していきたいものです。

昨日に引き続き、古墳残土説(古墳は平野部にしかなく、開墾によって生じた残土を盛ったのが古墳という説)の元凶となった方の文章を見ていきましょうニヤリ

 

 

〈N氏の文章より〉

豪族たちが自分の墓を作るために民衆を使役して盛土したのではなくて、その豪族さんを中心に、みんなで努力して新田を開墾し、結果として残土処理のための小高い丘(盛土)ができたから、そこにあとから中心者となってくれた豪族さんをお祀りしたのです。
そこにあるのは、「あの人のおかげで、こうして広い土地ができ、田んぼができ、お米がたくさんとれるようになって、みんなが腹いっぱい飯が食えるようになった」という感謝です。

そのどこがどうしたら「豪族が自分の墓を造るために民衆を使役した」となるのか。
まるで「あべこべ」です。

ですから、私などが子供の頃は、お年寄りたちは、「偉い学者さんというのは勉強ばかりしているから、頭が変になるんだねえ」と、可笑しそうに話していました。
学者さんたちの「豪族使役説、古墳墳墓説」などは、ただの奇説、珍説の類(たぐい)でしかなかったのです。

 

↑「偉い学者さんが豪族を使役したと主張している」・・・・この間違った、ありもしいない前提を元に話を続けていくので、古墳残土説に反論する気持ちが折れそうになります(笑)

このあと、しばらく、この間違った前提を元にした文章が続くので、ちょっと飛ばします。

 

 

 

 

〈N氏の文章より〉

ちなみに仁徳天皇陵は、周囲が堀になっています。
盛り土は、土が柔らかいですから、雨が降れば土砂が流れます。
つまり付近の田畑が、土砂で埋まってしまいます。
これを防ぐために周囲を計画的にお堀で二重に囲んでいます。
実に合理的な対処法です

 

↑周溝から出た土を古墳の築造で活用したり、元々ある地形、丘や山を切り崩して大きな古墳にしたり(造山古墳など)、築造方法は様々。

 

この古墳残土説を唱える方・・・・仁徳天皇陵をイメージしていますので、仁徳天皇陵について少しだけ解説すると、「上町台地」という高台に築かれています。周辺は河内湖があったり、難波津があったりと、「海上交通」を意識した場所にあります。「上町台地」周辺の低地はどうであったか?→古墳時代から約1000年後、同じ上町台地上であった「大坂の役」を詳しく見るとわかりますが、古墳時代から1000年たっても湿地帯であって水田はほぼありません。

 

↑国土地理院の陰影起伏図

地理院地図 / GSI Maps|国土地理院

陰影起伏図からも、仁徳天皇陵は高台に築かれていることがわかりますウインクしかも、古墳時代だと海に突き出た岬の突端のような場所とも想像できそうです。

 

 

 

〈N氏の文章より〉

古墳によっては、墳墓ではない古墳もたくさんあります。

たとえば仁徳天皇陵は、もともと墳墓とすることだけを目的とした御陵ではないことは、仁徳天皇陵のすぐ近くにある他の古墳がこれを証明しています。
仁徳天皇陵のすぐ脇に、いたすけ古墳とか御廟山古墳といった前方後円墳がありますが、その古墳が誰のお墓であるのか、いまだにわかっていません。そもそもお墓であるかどうかさえもわかっていません。
要するに、墳墓を目的に造成されものではないからです。
もともとが工事の結果としての盛り土で、結果としていちばん大きな盛り土に、みんなが仁徳天皇に感謝して、そこを御陵にしたに他ならないからです。

ちなみに、小さな盛り土を近くに造成したことにも、ちゃんと意味があります。
水田地帯は、大水に弱いのです。
水が出たら、みなさん、どうしますか?
高いとろろに避難しませんか?
一番大きな御陵を天皇陵にしてしまったら、そこは避難所には使えません。
ならば、その周囲に、こぶりの盛り土を造っておき、万一の場合の避難所にする。

 

↑ここまでの「想像力」は笑えるものがあります。

万が一、避難所にするのならば、階段があってもいいですよねニヤリ

うーん、反論する気力もなくしそうですが、古墳のなかには「墓」でないものもあると言ってます。

実際に主体部が見つかっていない古墳は数基ありますが、N氏の主張だと陪塚は「墓」ではないってことですねびっくりびっくり

 

仁徳天皇陵周辺には小さい古墳もたくさんあるけど、小さい古墳だと水害の際の避難場所にすらならないぞ(笑)

 

 

 

〈N氏の文章より〉

埼玉の行田市には「さきたま古墳群」がありますが、そこは石田三成が忍城(おしじょう)の城攻めをやったところとしても有名です。映画「のぼうの城」になりました。

この城攻めのとき、石田三成は近隣にある古墳群の古墳を取り崩して堤防を築きました。
石田三成は教養人です。
古墳がお墓なら、そんな乱暴なことはしません。
古墳が盛り土と知っていたから、これを用いました。

いまでもこのときに作られた堤防が残っていますが、その土は古墳と同じものだし、堤防から埴輪の欠片などが出土するそうです。
埴輪が、田畑を守る一種の飾り物だったからこそ、三成は、平気でこれを取り崩したのです。

 

↑忍城攻めの際に築かれた「石田堤」、やはりこの方には見に行って欲しいな。「石田堤」はものすごい大規模で長いものなので、古墳を崩したくらいで「石田堤」は造れません。

 

「さきたま古墳群」の稲荷塚古墳の主体部と将軍塚古墳の主体部を知ってる方、とても多いと思いますが、どちらも間違いなく「墓」ですよねニヤリ

 

 

 

 

〈N氏の文章より〉

学者さんたちは、古墳は豪族たちの権力の象徴であり、だから古墳は墳墓であり、副葬品としての埴輪は、人柱の代替品であり、もともとは人間を埋めていたのだ、といいます。

では、お伺いしたいのです。
副葬に人柱を立てたというのなら、その人骨が並んだ古墳を見せてくださいと。

 

↑人柱として人間を埋めていたと主張する学者さん。ではお伺いしたいのですが、そんな人柱であったと主張する学者さんを教えて下さい(笑)

 

存在しない学者を悪者として登場させ、平野部には水田がほとんどなかった古墳時代なのに「平野部を開墾」という間違った前提条件の元、全く証拠(遺跡など)を提示することなく自説を展開していくのがN氏のスタイルです。

 

明日に続きます。