染めと織の万葉慕情24
しきたえ
1982/9/17 吉田たすく
白栲(しらたえ)の衣、白栲の袖と続きましたが、衣や袖のほかに敷物の布の枕詞として敷栲(しきたえ)というのがあります。
寝床に敷く布から枕にかかり、黒髪や家などの枕詞に使われています。
敷栲(しきたへ)の
手枕(たまくら)巻かず
間(あひだ)置きて
年そ経(へ)にける
逢はなく思へば
この歌は安貴王(あきのおおきみ)が、因幡の八上(今の八頭郡)の采女(うねめ)を娶(めと)り、おもい極めて甚しく、愛情尤(うつくしびもと)も盛んであったが、時にして不敬の罪にさだまり、本郷(もとつくに=因幡の八頭郡)に帰されました。そこで、安貴王は妻を想う切々とした長歌をつくって送ります。
その歌の反歌に「八上采女」が歌った歌であります。
「あなたと手枕をむすんで寝る事がなくなって一年もすぎてしまった。
あなたに逢わない事をつくづく思う」と
このように枕、手枕に敷栲(しきたえ)の枕詞が使われています。
田部忌寸榛子(たなべいみきいちひこ)が太宰府へ赴任して行く時の歌
に、こんなのがあります。
置きて行かば
妹恋ひむかも
敷栲の
黒髪しきて
長きこの夜を
万葉時代から単身赴任があったのです。 妹をすておき、九州太宰府へ行ってしまったなら(二人で手枕まいて毎夜寝たものを)、妹は私を恋い慕うでしょう。 この秋の夜長を黒髪をしいて独り寝て。
独り寝の床に黒髪が乱れしかれて、背の君を想う妹の姿が見えるような
艶っぽさが歌われています。
また、別のしきたえの歌二首。
敷栲の
枕をまきて
妹と吾が
寝る夜は無くて
年は経にける
このころの
眠 (い) の寝らえぬは
敷栲の手枕まきて
寝まく欲(ほ) りこそ
妹と吾と二人で、手枕を巻きあてて寝る夜がなくなって長い年月が過ぎ
てしまいました。 妹が想われてしようがありません。
次の歌は、この秋の夜長にすねをかかえて独り寝のわびしく眠られないのは、妹と手枕まいてねたいばかりの想いがつのるからです。
神亀五年、太宰帥、 大伴旅人(おおとものたびと)が、故人(いまはな
き妻) 思恋(しのぶ) 歌 三首があります。(注)
愛 (うつく)しき
人の纏(ま)きてし
敷栲(しきたへ)の
わが手枕(たまくら)を
まく人あらめや
いとしい妻が枕にしたこの私の手枕を、枕にして寝る人があるだろうか、ありはしないのだ。
太宰をはらって京へ上るときの歌
還(かへ)るべく
時は成りけり
京師(みやこ)にて
誰(た)が手本(たもと)をか
わが枕(まくら)かむ
京へ帰って、誰がわがたもとを枕にして寝てくれるだろうか、妻はもういない。
敷栲の枕の歌をならべましたが、皆独り寝のわびしい歌ばかりになって
しまいました。
(新匠工芸会会員、織物作家)
…………………………
(注)
大伴旅人(おほとものたびと)が亡き妻 大伴郎女を思って詠んだ三首の歌のうちの二首が載せてあります。
大伴旅人は大伴家持の父で、大宰府の長官として筑紫(現在の福岡県)に赴任してすぐ翌年に病で妻を亡くしました。
旅人が
「愛 (うつく)しき
人の纏(ま)きてし
敷栲(しきたへ)の」歌を詠んだのは妻が亡くなってから十日程後とのことです。
一説によると旅人の大宰府への派遣は新興貴族である藤原家との確執が原因の左遷とも言われており、年老いた身(この頃、旅人は六十代半ば)での遠き地への赴任は甚だ不本意なものだったはずです。
そんな不本意な地方への赴任の直後に同行した最愛の妻(大伴郎女)を亡くした衝撃は、旅人の心を深く落ち込ませるものになったようです。
この歌で、そんな最愛の妻を亡くした悲しみを隠すことなく素直な表現で詠って亡き妻を偲んでいます。

