年末に、悲しい記事を見つけました。
それは、渡辺和子さんの訃報を知らせる記事。
「置かれた場所で咲きなさい」
という著書がベストセラーとして残されましたが、
その他にも、魅力的な本を残されました。
多くが、わたしの愛読書になっています。
このお顔、大好きでした。
この方のお父様は、陸軍中将で旭川第7師団長だった渡辺錠太郎。
53歳の時の子であった。4人兄姉の末っ子で次女[3]。
1936年、成蹊小学校3年生で9歳の時に二・二六事件に遭遇。父の居間で、当時大将で教育総監だった父が青年将校に襲撃され、43発の銃弾で命を落としたのを、わずか1mほどの距離から目の当たりにした[3]。
(Wikiより抜粋拝借)
わたしの暮らす一宮の隣、岩倉市のご出身で、
帰郷されたときには、岩倉駅が人で溢れたそうです。
(寺の父より聞きました)
渡辺和子さんの言葉で、感銘を受けた者は沢山ありますが、
その中で、大事にしているものは、
「人を100%信頼してはいけない」
ということ。
相手もわたしも人間。
人間であるからには不完全であり、間違うこともある。
裏切られることもあるかもしれない。
そのときに、100%信じてしまっていたら、相手を許せなくなる。
だから、もしかして、相手が間違ってしまった時に、
相手をゆるすために……。
そのために、2パーセントぐらいの「信じない」を残しておきましょう。
そんな意味の含まれた、
「100%信じない」。
わたしたちは、自分のために、相手を信じます。
そして、それが裏切られると、相手を憎む。
相手の責任にします。
「信じていたのに……」と。
でも、それは自分を悪者にしない手段でもあります。
相手を信じたわたしは悪くない。
裏切った相手が悪いのだ、と。
わたしも去年から続けて今年になっても、そんな「裏切り」を体験しました。
とても近しい人でした。
けれど、それは、相手にとっては裏切りでもなんでもない、という事実。
そんなことはいくつもあるもの。
そんなときに、この、
「100%信じない」
を、唱えます。
あの人とわたしは、決して100%同じ人間ではないのだから、
どんなに近しくても、同じ体験をしていてさえも、
100%同じ思いを持つわけがないのです。
どうして、裏切るの。
そんなことを考えても、仕方がないのです。
人は、自分が善である、と信じることをする。
それは自分にとっての「善」なのです。
若い時、修道女になりたい、と本気で考えたことのあるわたし。
縁あって、お寺に来ましたが、
その後も、渡辺和子さんの言葉は、わたしの生きる道しるべでした。
これからも、そうあり続けると思います。
渡辺和子さん。
あなたの存在が、わたしを支えてくれました。
ありがとうございました。
置かれた場所で咲きなさい 1,028円 Amazon |
こちらの本にも
「2パーセントの余地」として書かれています。