
携帯電話というアイテムがボクの作品に初めて登場したのが、『ツキノオト』の初演でした。えっと2010年。
満月動物園は1999年旗揚げで、もちろんその頃には既に携帯電話はありましたし、ボクも使ってました。
けど、なんというか、『麗しくない』と思ってました。
なんとなくしっくり来たのが『ツキノオト』の頃で、そろそろ使ってみっかと思って書いた物語でした。
改稿作業を進めつつ、そんなことを思い起こしていると、2010年と2015年の間にも大きな違いがありまして、そうスマホです...orz
別に『麗しくない』とかはないんですが、誰がスマホ使って誰がガラケー使ってとか考えてると、めっちゃ普通の行為になってしまった『検索』は物語のスジに登場しなくていいのかとか、写真は? とか、自縄自縛です。
ちょうど最近考えていたのが、生まれた時からスマホを持ってた世代が大人になって子どもができてとなると、ネットリテラシーは家庭教育の範疇になるんじゃないかとか、既に裏サイトとか問題になってて、その兆候はあるけど、でもまだまだ『手さぐりの世代』だと思うんですよね。
アメリカのどこかのエライ大学で(あいまい)『自動運転の車が事故を起こしたときの賠償責任はどこにあるのか』について、法学者がブレスト的な研究を始めてるというのを読みました。
現在の法体系では宙ぶらりんになってしまう事象なんですね。
責任が曖昧になるから自動運転の車の開発はやめよう、とはならない訳で、ドローンの事故なんかも問題になりつつありますね。
原発なんかは、法体系の不備に完全にヤられてしまっていると思うんですよ。
そう言えば、イギリスだったかな? アイルランドだったかな? 認知症の方や統合失調症の方に対して、当事者の声を聞こうという動きが、あるというのも読みました。
まさに昨年関わらせていただいた当事者研究の世界ですが、認知症の方は『ボケちゃってるんだから聞いても仕方ない』ではなく、当事者が何に困り何を求めているのか、それを制度に活かしていこうという動きだそうでした。
それで特に初期症状の緩和と進行を遅らせる効果が出てるそうで、それって素晴らしいことだと思うんですよね。
認知症なんてずっとずーっと前からあるものだろうに、当事者の声が制度に反映され始めたのが最近で、だもんで反映のさせ方も拙くて、もちろん皆んな満足なことなんてないでしょうから、一歩一歩なんでしょう。
とどのつまり、認知症の方の『問題行動』に手を焼く側の論理で、全部できてたんでしょうな。
あと、最近知って驚いたのが、養護学級って、ボクの小学校にもあったし当たり前に思ってましたけど、全国すべてに設置されたのは昭和54年のことで、それまでは『義務教育免除願』的なものを出して、知的障がいの方で教育を受けられない方も結構いたんだそうです。
昭和54年ってボクの妹が生まれた年で、そんな最近のことなんや! とビックリしました。
それを思えば、まだまだ世の中、良くなっていく途中なんだと思いました。今の問題は、時間がかかっても、ひとつづつ片付けていくしかないんでしょう。
まだまだ、なんならいつまでも『手さぐりの時代』が続いていくのかもしれないなぁー、なんてこと考えながら、脚本に向き合う日々です。