なんやねん、と。 | ネムリノソコ

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おたいらに

すっかり放置プレイでしたが、 みなさまいかがお過ごしでしょうか?

たぶん元気だったり幸せだったりしてくださっているものと、

およろこび申し上げます。


さてさて最近ですが、諸状況もありまして、かなりインプットな時期を

すごしております。


いろいろなことが自分の中に入ってきて、新しいコトに取り組ませて

いただく機会もたくさんいただいておりまして、

それはそれで、幸せなんだろうと貪欲にインプットなう、です。


アウトプット(=公演)は、来年になりそうです。

企画ものが1本、秋に入ってきそうですが。


が、どうにもこうにも、最近思うのが、

どうにもこうにも「結論ありき」の進行が多すぎないかと、

いうことです。


私も生業は会社員ですので「売上を上げる」という結論は

結論ありきで進んで当たり前と思うのですが、

(結論でなくて目的ですねこれは)

たとえば、どうしようもない商品Aがあったとして、

「Aで売上を上げる」というのを結論にして進行するのは

違うんじゃないか、ということです。


売れるものを売らなきゃ。


いや、今、会社でそういう目に遭ってるという話でなくて、

今の会社ではそんなことはなくて(「今まで」の会社ではありましたが)、

話は原発です。


会社が「売上を上げる」という目的を持った意思体だとすると、

国は「安全を守る」という目的を持った意思体なんじゃないでしょうか。

極論ですが「安全を守る、ために豊かになる」というくらいの

論理で動いてもいい。


再稼働に関しては、移行期として考えることがあってもいいかもしれません、

(それにしても、いったん動かしたらそれこそ「結論ありき」で止めることが

できないんじゃないかという疑念はぬぐえません)

どうしてもぬぐえないのは、今、福島に人は住んでいて大丈夫なのか、

ということです。


やっぱり、許容被ばく量の話は、何回聞いても読んでも理解できない。

「安全である」という結論ありきの姿しか見えてこない。

今まさに、大罪を犯しているんじゃないかと思う。


バブル後の一時期、いわゆる空白の10年に「閉塞感」が

キーワードとして語られてきた時期があったと思うけど、

今の「閉塞感」は、「閉塞感」という言葉だけでは語りつくせないモノがある。


なんやねん、これは!