父が亡くなって、まもなく一年が来る。
考えてみれば、なにもかも価値観の真逆な親子だった。
父は『福田赳夫的なモノ』にシンパシーを感じていたが、ボクは『田中角栄的なモノ』にシンパシーを感じている。
それは諸々、小泉・小沢にまで響いてくる。
このことを父に指摘すると「そんな話ができるようになるとは」的な反応を返され、(ボクから見て)従兄弟とこの手の話題が広がらないと嘆く叔父に『聞かせてやりたいわい』(伊予弁)、と煙に巻かれてしまったが、
彼ら二人と同時代性の中に生きた父の生の声が聞きたくて食い下がると、
建設関連業を経営する父は『まぁ、(田中角栄には)反発があらいの』(伊予弁)と、照れくさそうに、しかし苦々しげにポツリと言った。
同時代性の中からしか出ない表情だと思った。
ボクは福田赳夫自身はこれがまたスタイリッシュで画になってカッコ良いので好きなのだけど、
政治家としては好きでない。
ボクと父は『違い』というよりも『隔たり』を相互に認めあい、適切な距離感をつかむのに長い時間を要した。
近くにいたら、もっと不幸な結末を迎えたであろうことは間違いない。
近くに長くいれば、お互い戦わざるを得なくなり傷つけあうしかなかったろうし、離れていればお互い求め合う、という関係にあった。
少々の寂しさと引き換えに、求め合い続けることで落ち着いたのだと思う。
たまの出会いだからこそ(帰省とか)、『違い』を楽しめ、一緒にいる時間を楽しめた。
なによりの違いはボクが同族会社、全否定であるということだと、亡くなってから気がついた。
跡を継ぐために帰った従兄弟もいる中で、なかなか言いにくいことだけど、彼らを否定してる訳じゃない。
葬式のあと、相続手続きのために父の会社に行ったら、出てくる人、出てくる人みんな昨日、葬式で会ってた人たち(親戚)というシチュエーションに心底『ムリ』と思ってしまった。
いや、ムリですわ。ボクには。これは心底、違う世界に生きてたんだと痛感させられました。
親不孝は、そりゃあいっぱいいっぱいしましたが、『遠くに住んだ』という親孝行もしたんだ、と思いました。
近くにいたら、完全なる決裂か、深刻な破綻を迎えていたと思います。
ただ、父もボクに跡は継がせたくなかったようで、まだ価値観の定まらない高校生のころに『父のような仕事をするにはどうすれば(どんな勉強をすれば)よいか』と聞いたことがあって、その答えは忘れてしまったのだけど、その後に『あんまりやらせたくはないけどの。大変やけんの』(伊予弁)とポツリと言っていたのをよく覚えています。
ボクの細い神経では、経営者はムリだと喝破していたのかもしれませんが。
お父さん、それ当たりです。
なにせ実の父のことなので、語り出せばキリはないのだけど、まもなく一周忌を迎える訳で、長男の当代としては先々の祭祀も考えていかなくてはいけません。
なにがあっても無縁墓をつくりたくはないし。
ボクの人生にこれ以上、廃墟はいらんわ。(ボクの人生に関わる4つの廃墟の話を前に書きました)
という訳で大阪にお墓を買ったのだけど、最終的にはボクもそこに入る訳で、よく考えたらこれ以上なく近くに永住してしまうことになってしまったのだけど、仲良くできるのかしらん?
アチラでは、お互い好きな政治談義だけして暮らすことにしよう。