訳あって、しばらく実家で暮らすことになった。
しばらくっても2~3日ですが。
前にも書いたのですが
、ボクの『実家』は廃屋となっていて、
正確には、父と母のマンションでしばらく暮らす。
考えてみたら、『実家』が廃屋として残っているのが、
ボクに屈折した郷愁を抱かせている。
きれいさっぱりなくなって、記憶の中にだけある、
というのではなく、確実に朽ちていっている。
これも前に書いたが、ボクの人生で何度か廃屋に出会っているので、
あのなんとも言えない埃の匂いに覆われていっているだろうと、
思いを致すことは、とても忍びない。
かといって郷里に戻って『実家』を守ろうという気もないので、本来的にボクに発言権はない。
とまれ、父と母のマンションにいる訳だけど、
ほとんどの家具が新調されている中で(つまり、ほとんどの家具が『実家』に置きっぱなしな訳ですが)
暮らしてみると『実家』から引き継がれたものが少しくある。
例えば写真の麦茶のポット。
ボクが物心ついたころには、もうあった。
フタのところにはタグがあったのに、子供のボクが指で開けれなくて、
歯で開けていたので、タグが引きちぎれている。
そうか、お前、まだいたのか。
と、ちょっとグッときた。
ボクのツマなら確実に捨ててる使い込まれ様である。
大学を留年したり中退したり、色々親不孝を重ねて、約10年ほどの実家との断絶があって、それも大きいのは確かだ。
ただその断絶があるので、親の老いや環境の変化に対応出来ているのもある。
ボク主観では変化はゆるやかにではなく、スパンとやってきたからだ。
変化に対応したというよりは、目先の現実に対応しているという方が実感に近い。
そんな断絶の期間や、なんやかやずっと全部を現役として過ごし、今、再びボクにお茶を注いでくれてるポットくんにブラボーな気持ちでいっぱいになってしまった。
彼がたぶん安物であろうということと、とりたてて大事に扱われてきたという形跡もないことがなお、そう思わせる。
彼を見ただけで、『実家』の夏の景色が、ふわっと蘇った。