僕は『死』を病的に恐れる子供だった、と思う。
「思う」としたのは、病的かどうかは他人との比較の
形容詞だと考えたからで、
「僕は『死』を恐れる子供だった」、としたほうが
簡潔で良いかもしれない。
特に心臓や脳に過敏な反応をしてしまい、
脳死なんてことを考えるだけで卒倒しそうになったものだ。
過去、満月動物園作品として1度、満月動物園結成前にも
1度、「人工心臓の少女が脳死する」という話を書いた。
このブログのタイトルにもなっている、「ネムリノソコ」 という
作品だ。
僕の作品は社会派とは言いがたく、あくまで主観的に描いた
メルヘンの作品であるが、「脳死」に対する思い入れ(?)は
とまらない。
母方の曽祖母と父方の祖母のいずれも最期は
長期間、脳死状態だった。
さらに母の姉は現在進行形で植物状態だ。
植物状態と言い換えたのは、飽くまでまだ存命中である
伯母に対する気持ちに故する。
最近になって、母の母つまり祖母の痴呆がひどくなって、
母は次女で家を出た身であるが、家を継いだ伯母が
そのような状態であるので、実質的にウチの実家で
引き取ることになったらしい。
父方の祖母が亡くなる時にも、父は次男であるが、
長男の叔父さんの家は奥さんが早くに亡くなっていたので、
世話をできる人がいなくてウチで引き取った。
その祖母も最期は脳死状態になった。
ウチの父母は次男、次女の夫婦でありながら、
それぞれの母親を看取ることになるらしい。
しかし、母はいつも明るい。たまにムダに深刻だが。
母の明るさと父の度量には、まだまだ、かなわない。
話がややそれてしまったが、
脳死とは脳の死であって、回復しないもの。
とばかり思っていたが、最近、長年植物状態であった人が
意識をとりもどしたというニュースが相次いでいる
(客観的には、ちらほらだけど、個人的には相次いでいる)。
http://www.sankei.co.jp/news/051006/kok032.htm
しかも、一番最近の例では医者が「意識がない」と診断していた
期間でも回りの声は聞こえていたという。
正直、「やっぱり」と思った。
もちろん、今回のケースが稀な例であろうということは、
否定しにくいが、それでも「やっぱり」聞こえていたのか、
という感慨を持ってしまう。
やはり、「医学の進歩」が彼らを目覚めさせているのだろうか?
「延命処置」への心理的な葛藤はあるけれど、
出来るだけ多くの「植物状態の患者」たちが目覚めてくれることを
祈らずにはいられない。
「脳死移植」について論じるのは、その後にしよう。
「医学の進歩」は神様の問題を人間の問題にしてしまう。
せめて悩み続けることにしよう。
※「脳死」と「植物状態」の混同があるかもしれません。
不勉強な主観的な文章ですみません。