脚本と俳優と、とどのつまりは舞台づくり | ネムリノソコ

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おたいらに

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今から書こうと思っていることは、覚書程度のことで、

明日には意見が変わっているかもしれない類のものです。


「脚本」というものに対するアプローチとして、

「脚本」があって「俳優」が在るというのが、一般的らしい。

でも、僕は長年(まだ10年ほどですが)、

「俳優」が在るから「脚本」ができてくるのだと

考えてきました。


それは所謂「あて書き」というものではなくて、

なんというか、俳優としての「たたずまい」こそが、

舞台を舞台足らしめる必要十分条件だと考えるからです。


僕は満月動物園という劇団を率いていますが、

俳優さんが「満月動物園における私のたたずまい」を

持ち得ない場合、

僕はその俳優さんを消費することしかできません。

つまり、僕のやりたいことを実現する手助けは

してもらえますが、消費し尽くした段階で、

一緒にやる意義を見失ってしまいます。


「満月動物園における私のたたずまい」は俳優さんのみで

持ちえるものではなく、僕との協同作業の中で

醸成されてくるものだと思います。


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もちろん何を持って「消費し尽くした」と判断するかは

非常に難しい問題であることは踏まえて、ですが。


僕も含めて、満月動物園(※固有名詞で述べるよりも、

劇団、あるいは劇作をする集団と言い換えるべきかも

しれません)に慣れるという行為は非常に危険なもの

であろうと思います。

それは一般に緊張感とか、その類の言葉で表現されて

いるものと同じなのかもしれません。


多分、観劇者としても、かなり偏っているであろう、

僕は、脚本の力を大きく見ることを拒否してきました。

俳優のたたずまい、言い換えれば「舞台に立つ根拠」を

明確に示しえたなら、それが最もすばらしい作品で

あろうと、思うのです。


ここまでの考えを共有できても、ここで一つの岐路が

生じます。「舞台に立つ根拠」が弱い者は舞台に

立ってはいけない。という論です。

僕は、「舞台に立つ根拠」に強弱はない。というスタンスを

とります。あるのは明確か、不明確かということだけ

だと考えます。


直截的に言うなら「なぜ大勢の人間の時間を拘束し、

お金をもらって、静かに座らせて、自分に注目させ

得るのか」。それが「舞台に立つ根拠」であると

思います。

答えは俳優、あるいは俳優を志す人の数だけあって、

それがよりクリアであれば言語として表に出てくるものが

「だって、目立ちたいんだもん」

でも充分だと思います。


脚本(あるいは演出も、ただし演出については稿を改めて

定義しなおしたいのですが)は、「根拠を持って立つ俳優」を

得て初めて脚本足り得、逆にそれを得たなら脚本自身が

存在意義を失うという関係にあると思うのです。


とまぁ、思索の軌跡をとどめる程度に、

ここに書いておこうと思い立ったわけです。

今まで書き溜まった、膨大なメモ帳は結局、

時系列順でしかなくて、索引がとても面倒なので、

ブログは便利だなぁ、と思い始めたので。

続くかどうかわかりませんが。