私たちにつながる、人類の共通の歩み
現生人類は、アフリカで誕生したと考えられています。
そこから長い年月をかけて、私たちの祖先は世界各地へと移動し、それぞれの土地の環境に適応しながら、共同体をつくり、さまざまな暮らし方を生み出してきました。
その長い歩みは、今を生きるすべての人につながる、人類共通の物語でもあります。
はるか昔の祖先たちも、子どもを育て、家族を守り、食べ物や知恵を分かち合い、互いに助け合いながら生きていました。
親から子へ、そしてまた次の世代へ。
何世代、何千世代という長い時間をかけて、命は受け継がれ、やがて私たちへとつながってきました。
人々が移動し、出会い、別れ、ときには互いに交わりながら暮らす中で、人類は非常に多様になっていきました。
外見にも違いが生まれました。
さまざまな言葉が生まれ、変化していきました。
文化や伝統、暮らし方も、それぞれ異なる道を歩んできました。
今を生きる私たちは、外見も違えば、話す言葉も、暮らす国も、文化も違います。
信じる宗教が違う人もいれば、宗教を持たない人もいます。
それでも私たちは、みな同じ人類です。
そして、一つの長い人類の歴史の中につながっています。
私たちは皆、大きな意味では、一つの人類の家族なのではないでしょうか。
私たち一人ひとりの先には、かつて子どもを守り、大切に育て、次の世代へ命をつないだ無数の人々がいます。
歩んだ道は違っても、同じ人類
現在、アフリカ、ヨーロッパ、アジア、オセアニア、南北アメリカなど、世界各地に暮らす人々は、それぞれ異なる歴史を歩んできました。
日本に暮らす私たちも、その一部です。
日本列島に暮らす人々も、長い歴史の中で、人の移動や交流、混交を重ねながら現在へとつながってきました。
世界のほかの地域の人々にも、それぞれに移動、交流、環境への適応、文化の変化という長い歴史があります。
こうした異なる歩みが、現在の人類の豊かな多様性をつくってきました。
しかし、多様であることは、人間の価値に上下をつくることではありません。
肌の色、顔立ち、祖先、民族、国籍、言語、文化などが違っていても、それによって誰かが他の人より「人間として上」になったり、「人間として下」になったりするわけではありません。
私たちは、違いがあることを認めながら、その違いを分断に変えないことができます。
それぞれの集団に異なる歴史があることを認めながら、その歴史を人間の価値を測る物差しにしないこともできます。
外見が違っても、どちらかの外見が優れていると考える必要はありません。
文化が違っても、別の文化を持つ人を人類の外側にいる存在のように考える必要もありません。
それでも今なお、世界では人種や民族の違いを理由とした差別によって、多くの人が苦しんでいます。
人類が歩んできた長い歴史を考えると、私はそのことをとても残念に思います。
人類の多様性は現実に存在します。
それは、人類が長い時間をかけて世界各地で生きてきた結果でもあります。
しかし、
違いがあることと、人間の価値に上下があることは、まったく別の話です。
宗教が違っても、互いを尊重することはできる
宗教もまた、人類が長い歴史の中で生み出してきた大きな多様性の一つです。
神とは何か。
人間とは何か。
善悪とは何か。
死とは何か。
この世界や宇宙には、どのような意味があるのか。
人々は、こうした根源的な問いについて、さまざまな考えを持っています。
宗教によって答えは異なりますし、宗教を持たない人もいます。
その違いは現実に存在するものであり、無理に同じものとして扱う必要はありません。
同じことを信じていなくても、私たちは互いを尊重することができます。
世界の多くの宗教や倫理思想には、思いやり、寛容、節度、優しさ、困っている人への配慮など、人を大切にする考え方が見られます。
その一方で、人類の歴史を振り返れば、宗教の違いが排除や迫害、争いの理由として利用されてきたことも事実です。
そこから私たちが学べることがあるとすれば、
自分の信念を大切にすることと、異なる信念を持つ人の尊厳を否定することは、同じではないということではないでしょうか。
自分の信仰を大切にしながら、別の宗教を信じる人を尊重することはできます。
人生や世界について深く意見が異なっていても、その違いを憎しみに変える必要はありません。
自分とはまったく異なる考えを持つ人が困っていれば、手を差し伸べることもできます。
人生の根本的な問いについて、最後まで意見が一致しないこともあるでしょう。
それでも、互いを一人の人間として尊重することはできます。
宗教の多様性は、差別や迫害の理由である必要はありません。
むしろ、自分とは異なる考え方に触れ、人間という存在の多様さを知る機会にもなり得ます。
未来の子孫を想像してみる
私はときどき、何百年後、何千年後の世界を想像します。
これからも人間は移動し、人と人が出会い、家族をつくり、新しい文化を生み出していくでしょう。
今を生きる子どもたちの子孫は、遠い未来には、私たちとはずいぶん違う外見になっているかもしれません。
私たちには理解できない言葉を話しているかもしれません。
今はまだ存在しない国や社会で暮らしているかもしれません。
私たちとは大きく異なる文化の中で生活しているかもしれません。
今の私たちにはなじみのない宗教を信じているかもしれませんし、宗教を持っていないかもしれません。
私自身の子孫について考えてみても同じです。
私とは違う外見をしている人がいるかもしれません。
違う言葉を話しているかもしれません。
違う宗教を信じているかもしれません。
私が一度も見たことのない土地で暮らしているかもしれません。
しかし、それによって、その人たちが私にとって大切な存在ではなくなるでしょうか。
私は、そうは思いません。
何百年、何千年という時間を経ていても、私たちが今大切にしている子どもたち、その先へと続いていく子孫だからです。
そこで、私は考えます。
もし何百年、何千年後、その子孫たちが互いの違いだけを見ていたらどうでしょうか。
肌の色が違うという理由で、互いを差別していたら。
信じる宗教が違うという理由で、互いを憎んでいたら。
文化や外見、信仰が違っているというだけで、互いを敵として扱っていたら。
私たちは、そのような未来を望むでしょうか。
私は望みません。
なぜなら、どれほど外見が違っていても、どのような言葉を話していても、どのような宗教を信じていても、その一人ひとりが、私につながる大切な子孫だからです。
そして、本当に子孫のことを大切に思うのであれば、私たちは彼らに何を物質的に残すかだけでなく、
どのような価値観を残すのか
についても考える必要があるのではないでしょうか。
本当に大切なのは、何だろう
今も世界では、人種、民族、宗教、国籍などの違いに関連した偏見、差別、迫害、争いによって、多くの人が苦しんでいます。
そして、その中には、世代から世代へと受け継がれ、強められてきた対立もあります。
だから私は、ときどき自分自身に、そして多くの人に問いかけてみたいと思います。
私たちが相手に抱いている先入観と、子どもたちの幸せ。
本当に大切なのは、どちらでしょうか。
今は揺るがないように見える人々の境界も、未来永劫同じとは限りません。
今は何の関係もないように見える人々が、遠い未来には、家族や友人、地域社会、そして子孫を通じて、思いもよらない形でつながっているかもしれません。
しかし、仮にそうした境界が何百年も変わらなかったとしても、大切な原則は変わりません。
違うということは、その人の尊厳が低いということではありません。
人類がもっと似た存在になるまで待たなければ、互いを尊重できないわけではありません。
今からできます。
もし私たちが偏見や敵意を次の世代へ、さらにその次の世代へと受け渡し続ければ、未来の子孫たちは、本来であれば私たちの世代で乗り越えられたかもしれない対立を受け継ぐことになります。
しかし、逆の未来もあります。
私たちは、もっと良いものを次の世代に残すこともできます。
未来は、まだ決まっていない
はるか昔、私たちの祖先は、生きるために懸命に暮らしていました。
子どもたちを守りました。
食べ物や知恵を分かち合いました。
互いに助け合いました。
そして、少しでも子どもたちが生きていけるよう、できることをしてきました。
その営みが世代から世代へと繰り返され、やがて私たちの命につながりました。
今度は、未来が私たちの手にあります。
過去に起きた争いや苦しみを、私たちは変えることができません。
しかし、これからの世代へ何を受け渡すかには、影響を与えることができます。
外見が違う人は、それだけで「自分とは関係のない人」なのではないと、子どもたちに伝えることができます。
同じ宗教を信じていなくても、互いを尊重できることを示すことができます。
違いを恐れるのではなく、知ろうとする姿勢を伝えることができます。
軽蔑ではなく、尊重を。
憎しみではなく、協力を。
偏見ではなく、理解を。
それは、自分自身の文化や信念を捨てるということではありません。
自分の文化を誇りに思いながら、ほかの文化を劣ったものと考えないことはできます。
自分の伝統を大切にしながら、すべての人に同じ伝統を求めないこともできます。
意見が違っていても、相手を人間として否定する必要はありません。
そして、目の前にいる人が、何よりもまず、自分と同じ一人の人間であることを忘れずにいることができます。
私が願う、人類の未来
私たちの祖先も、自分の子どもたちに安全で幸せに暮らしてほしいと願っていたのではないでしょうか。
未来の子孫たちも、自分の子どもに同じことを願うでしょう。
そして、多くの違いを持っている私たちも、この願いだけは共有できるのではないかと思います。
子どもたちのために。
そして、これから生まれてくる世代のために。
人種差別、民族への憎悪、宗教を理由とした迫害が、いつの日か過去のものになることを、私は願っています。
しかし、そのために人類の多様性そのものをなくす必要はありません。
外見、言葉、文化、祖先、信仰の違いは、人類が長い年月をかけ、さまざまな土地で生きてきた歴史の一部です。
目指すべきなのは、みんなを同じにすることではありません。
目指したいのは、
違っているというだけで、誰かの尊厳や安全、機会、思いやりを受ける権利が低く扱われることのない世界です。
人種や民族、宗教、国籍の違いを見る前に、一人の人間として互いを見ることのできる世界です。
違いを、恐れる理由にしない世界。
意見の違いを、憎しみへ変えない世界。
多様性を人類を分断するために使うのではなく、人類を豊かにするものとして受け止められる世界です。
私たちは皆、数え切れないほど多くの世代から命を受け継いでいます。
私たちの存在につながった人々のほとんどを、私たちは知りません。
名前も知りません。
どのような顔をしていたのかも知りません。
どのような言葉を話し、何を信じていたのかも分かりません。
しかし、その人たちが生きていたからこそ、私たちは今ここにいます。
いつの日か、私たち自身も遠い過去の人になります。
そして未来は、私たちが会うことのない世代のものになります。
だからこそ、考えてみたいと思います。
私たちは、どのような世界を彼らに残したいのでしょうか。
違いのない世界ではありません。
全員が同じことを信じる世界でもありません。
違いによって、誰が尊厳を持つに値するのか、誰が安全に暮らすに値するのか、誰が機会や思いやりを受けるに値するのかが決められない世界です。
人と人が、違っていても敵にならずにすむ世界。
外見の違う人も、自分と同じ人間なのだと、子どもたちが自然に理解できる世界。
宗教、政治、文化、人生の意味について意見が違っても、互いが同じ人間であることを忘れない世界。
未来は、まだ決まっていません。
そして私たちは今、その未来の一部を書いています。
子どもたちの笑顔のために。
そして、これから生まれてくる世代のために。
差別や憎しみをなくすために、いつか誰かが始めるのを待つのではなく、私たちの世代から始めたい。
違いのない世界ではなく、
違いがあっても共に生きていける、成熟した世界を残したい。
そして、私たちが決して会うことのない未来の世代へ、
受け継ぐ価値のあるものを残したい。
尊厳と理解、そして互いへの敬意の上に築かれた、より平和な人類の未来を。
FMO-AOKI
