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re healing

神と智がいかに交わるかをテーマに、いろんなことを書き綴っていこうと考えております。

「神との対話」は個人的にフェーズにかかわらず、強くお勧めする本のひとつですが、突然、神(創造主、All That Is、ブラフマン)の声が、本当に聞こえてきたら、それどころか双方向のコミュニケーションができるようになったら多くの人はどういう対応をするでしょうか。

おそらく、逃げ惑うと思います。部分的には耳を傾けても、神の声に真に心を開き、内容の如何に関わらず、耳を傾ける準備のできている人は未だ多くはありません。多くの人は光を真実を恐れています。そしてその救済の光に、自らの信ずる闇・罪を投影します。

いかなるものであれ、許しえないものがあるのなら、それは神を許していないのです。そして罪の認識(許さないということ)とは神に対する攻撃に他なりません。神を攻撃しながら、神との合一、涅槃、空の体験は不可能です。なぜなら、罪を信じるものにとって救済は究極の闇だからです。

なぜ罪は実在しないのか。それは幻想だからです。それゆえに許しとはその対象の非実在性の認識を伴います。その先に原初の真実の残滓を見れば、もはや裁かれるべきものは存在し得ません。

世界の全てが許された時、そこに実相が顕われるでしょう。
対立というのは、虹の中の各々の色が自分の色以外見えなくなった時に生じる。

「赤が正しいに決まっているだろう。青とかバカじゃないのか?」

でも実際は虹をなす全体の一部として各々の色に完璧な役割がある。

部分としての各々の輝きも完璧であるし、その部分を包含する全体としての存在も完璧だ。

自らの色を肯定するために、それ以外の色を否定する必要を感じた時、衝突が生じる。

他の色を否定しなくてもあなたの色は素晴らしい。
物語を作るときに、時に(幻想としての)闇(すなわち光の欠如)の存在の協力が不可欠になる。

その人の体験するドラマに不可欠な闇の存在とのコラボレーションで、魂の目的が果たされるとき、文字通り全てが完璧であることを知る。

その完璧性が認識されれば、闇の逆説を体験に組み込む必要性は減ってくるだろう。