「久邇宮家関係書簡集」を拾い読みして | 無駄話。

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 「久邇宮家関係書簡集」は安い本ではないが、これから参照するわけなので買って拾い読みしていると小山いと子の「『皇后さま』」以降広まった「三人の候補がいて、貞明皇后が選んだという説」」云々と引用された個所がある。「皇后さま」の初版は昭和31年刊なので、それ以前に良子女王、方子女王、一条朝子の三人が皇太子裕仁親王の「お妃候補」という風説?がなかったかどうかは知らないが考えた事もなかった。昭和25年に刊行された張赫宙の「秘苑の花」には「久邇宮の良子女王と方子女王と、このお二方の中から将来の皇后が選ばれる」という件があるのだが、引用元を書いた論者は王公族には関心ないらしいので「秘苑の花」は読んでいないだろうな、多分。

 方子女王名義の「動乱の中の王妃」(「流れのままに」)なり「歳月よ王朝よ」なりの下には「秘苑の花」が隠れているのだが「皇后さま」まで隠れているとは気がつかなかった。ゴーストライターが「秘苑の花」を直接読んでいるかどうかは分からないが「皇后さま」は読んでいるだろう、多分。

 邦彦王の3王女の嫁ぎ先を書いた個所で香淳皇后と大谷智子裏方はともかく信子女王は島津家ではなく三条西家なのに何故そうなったのかは書かないのだろうか?

 邦彦王の「大正(6)年9月27日」付けの手紙にある貞明皇后の発言の引用は香淳皇后は「年齢か」昭和天皇と「余り接近し過るとのことなりし」から始まって候補者にどんどんと「不可」として信子女王と東本願寺との婚儀が進んでいた智子女王に白羽の矢が立てている文面だが、どうやって良子女王になったのだろう?ここは分からないらしい。「梨本宮のは姉か朝鮮に嫁するを以て不可」とは露骨な表現だが、ここで述べているのは方子女王ではなく規子女王だ。元々方子女王は通説と違って昭和天皇と同い年なので「お妃候補」ではなかったのか、それとも王世子李垠「に嫁する」ので規子女王に変わっていたのかは分からない。