2週間ぐらい前に、背中の打撲痛でシップ薬をしばらく背中に貼っていたが、その後は、写真のような物(プラスチック製の孫の手のような医療用の便利グッズ)を使って、ラブという塗り薬を背中に一日一回塗っていた。


そのためかどうか知らないが、だいぶ痛みが引いてきた。このような背中に届くような手の代わりをする便利な道具なしに、自分の背中の痛みや炎症などを自分で治療するのは、とても厄介(やっかい)だった。困った時の杖になるような生活の知恵の蓄積は必要だと思う。


話は変わるが、TVでジブリ作品「猫の恩返し」を5月3日の金曜日に放映される予定だったので、録画しておいて翌日に見た。私は、この映画を今回初めて見たのだが、ジブリの幻想的ドラマチックな物語は、なかなか大人が見ても考えさせるものを含んでいると思われた。


本来、猫が言葉(人との会話能力と手段)を話せるわけないのだが、ジブリは、動物に、そういう能力を与えて物語(人間と動物の共同参加型の幻想社会)を展開させていく。これで、ついていけなくなった常識の尺度しか持たない大人達は途中で見るのをギブアップしてしまうが、私はついていく。


この映画は、吉岡ハルという活発な女子高校生の普段の高校生活ぶりを紹介した後に、ある日ハルが学校の部活(ラクロス部)の帰りに、何かを口にくわえた灰色っぽい猫が大きな道路を横断しようとしてクルマにぶつかりそうになっているのを偶然見かけ、急いで走って、持っていたラクロス🥍の棒の網に猫を入れて、間一髪で交通事故の災難を未然に防いで、猫を助けてしまうというシーンから、本格的に物語が進行していく。


そして、この後、その猫が急に後ろ足の二本足で立ちあがって、日本語でハルに挨拶して、命を助けてくれたお礼をしたいから後日連絡すると、お辞儀をして述べたので、ハルは「ハァー」と目を丸くして叫んで、天地がひっくり返ったみたいに、とてもビックリするのだが。。。



この映画のTV放送を前夜録画して翌日の夜に見たわけだが、その昼に、私は、ある体験をしていた。それは、やはり野良猫が道路を急に横断しようとしてクルマに轢かれるという交通事故があった直後、そこに私が運転していた車が偶然に通りがかるという体験であった。(以下の体験話は脚色が少し入っているので3割引きで読んでもらいたい)


猫を轢(ひ)いた前方のクルマはそのまま猫を置き去りにして走り去って行ったのだった。


ゴールデンウィークでもあり、片側一車線の道路はクルマでとても混んでいた。その猫は、衝突のショックで起き上がれずに血だらけになって道路の真ん中辺りでニャーニャー(痛いよ痛いよと)叫んで倒れていた。後続のクルマは私のクルマを含めて、皆んなブレーキをかけたまま立ち往生していた。


そこにたまたま歩道を歩いていた勇気ある人が道路に入って、その重体の猫を担ぎ上げて、道路の脇の歩道にある花壇の中にそっと寝かせてあげた。猫はしばらく苦しそうに暴れていたが、ほどなくして息を引き取ったようだった。


ほんの僅かな時間であったが、行楽日和で車が混んでいる道路状況では、猫も無念の災難だったが、ドライバー達の方も、楽しかるべき日なのに突然の災難となった。


こういう場合、事故に合った野良猫の処置は、地域住民が管轄している地域猫でもあるので、猫に気づいた地域住民や通行人が、後の処理の始末を、それぞれ分担リレーして最終的に自治体の引き取り係に連絡して処理してもらうしかない。


猫を轢いたドライバーは、気が動転してそのまま何もしないで走り去ったが、自分一人では手に終えないからと、邪魔くさくなったり、パニックになってしまうのではなくて、ひとまず、クルマを止めてハザードランプを点滅させて、できる限り、轢いた猫を道路の真ん中から脇の歩道に移動させるという緊急の対処行動だけでも取って欲しかった。


このような動物の交通事故は、(人間の)誰が加害者でもなく被害者でもない。被害者は車の往来する道路の危険性を認識出来ない非力な猫(人間の赤ん坊と同じ)のみである。ドライバーは冷静に判断して問題を解決する必要がある。


確かに車から外に出て、まだ血だらけで動いている猫を抱えて移動させるのは、ちょっとした覚悟と勇気がいることではあるんだが。


後ろにブレーキを踏んで待機しているドライバー達の気持も考えてもらいたいと思う。後続のドライバー達も、動物愛護の感情を失くして、道路に横たわっている猫を命のない物体かのように、そのまま通りすぎて行きたくはないからだ。


勇気を持ってドライバー達が猫を道路から歩道へ移動させた後後の事は、付近の場所をよく知っている地域住民や地元の自治体に任せることでいい。


飼い猫であろうと野良猫であろうと、リードしないで放し飼いにしている猫(いつでも交通事故になる危険性がある)の場合は、その地域住民と自治体に総合管理責任があるのであり、野良猫の交通事故処理については、皆んなで事故責任を少しずつ分担してリレー処理するルールを確立することである。


当事者が一人で全ての事をやってしまおうと考えないことだ。

一人で全てやるか、全くやらないかではなくて、複数人が気持ちと行動を分けあって部分的にリレーしてやればいい。


つまり、その一部ずつだけでも、自分にやれる事を逃げずに無理なくやればいいのだ。この社会は、各自が、また(有志の)誰かが役割分担してバトンリレーして問題に対処するように出来ているのだ。


この偶然の災難な事故に出会ったドライバー達に、事故にあった野良猫が生きているなら、動物病院に連れて行ってやれとか、高額の手術代や治療費を払って猫を助けてあげろとか、最後までとことん面倒をみてあげろとか、こういう非常事態の場合は動物病院も無料で奉仕しろなどという無茶な非現実的理想論は誰も主張していない。


だいいち、事故に合った動物の救急のための救急車🚑️の電話番号(119番のような229番ニャンニャン救急又は129番ワンニャン救急)は現実にはあり得ないのだ。あるのは、ジブリの幻想的世界だけである。


つまり、ジブリの映画「猫の恩返し」で、吉岡ハルが自分の命を゙賭けて偶然にも猫の命を゙助けた行為も、他の皆んなが出来るような簡単な現実的行為であるかと言えば、全くそうではないのだ。


まかり間違えば、ハル自身が巻き添えを゙食って、猫といっしょに交通事故死してしまう可能性もあったのだ。


よく池や川や海で溺れた人を助けようとして、犠牲になる例もあるからだ。


無茶な非現実的理想論は、現実世界から遊離した幻想物語の中で楽しむのであれば、それでいいが、ジブリの映画は、女子高校生の全員がハルのように、クルマに轢かれそうになった猫を命がけで助けろなどとは言ってないし、ハルのような勇敢な少女になったらいいね、などとも主張していない。


つまり、ドラマはドラマ、幻想は幻想、理想は理想、夢は夢なのだということだ。


逆に言うと、人は、全部ではなく、部分的には一つや二つの事は実際に出来る能力はあるだろうから、何分の一くらいの部分的な助力(実際的に個人の能力の範囲内で出来る対処行為)をやるだけで、社会的には十分であると満足することである。はた目を気にした無理な理想追求までは個人に求めてはいないということだ。


そういうことを考えると、この「猫の恩返し」というジブリの幻想物語は、(もしも現実の話がこうだったと仮定するならば、命の助かった運の良い猫と主人公はどういう夢物語を展開するのだろうか)という仮定の上で作られた夢の世界であるので、色々と考えさせられるし、現代の便利なクルマ社会の裏側に抱える問題点を提示しているとも言えるだろう。


くれぐれも、現代の車社会においては、動物を戸外にリード無しに放し飼いすること(野良猫状態にすること)は、交通事故の原因を作っていることになるから、やめてほしいと思う。


また、自動車業界も、犬や猫などの動物が交通事故で重傷を負って、救急治療のために動物病院を利用せざるをえなくなった場合には、完全無料で診察と治療を受けられるように、財団を作って資金援助を動物病院にしてあげて欲しいと思う。


猫や犬には、人間社会の複雑な交通マナーを100%理解させて守らせることは、ジブリの創作する幻想物語でない限り、無理なことだからね。