今日は、とても悲しいお知らせをしなければなりません。
フライバーを日本に持ってこようと最初に発案した株式会社 せいる の関俊昭社長が6月21日、亡くなりました。
http://www.flybar-japan.com/japan.html
公式フライバー日本語サイトに、日本で販売するに至った経緯を下記のように書きました。
このフライバーの存在を始めて知ったのは、株式会社せいるの関社長からの電話からです。
「とんでもなく高く跳ぶ『ホッピング』がアメリカにあるらしい。ディスカバリーチャンネルで放送していた。『フライバー』っていうんだ。本当に空を飛んでいた。」
これが2006年秋のことだったと思います。
そこからSBI社に直接メールをしての交渉が始まったのですが、正式に日本での販売代理店契約を結んだのは、2007年6月に私と関社長で現地NYのSBI社を訪ねてのことになります。
販売開始はその年2007年の秋からです。
当初は、フライバーだけの販売を考えていました。
SBI社の主力商品である「ポゴスティック」が日本のホッピングと同じと考えていたからです。
ところがポゴスティックの現物を見ると
ホッピングとは明らかに違います。
ホッピングが実は、このポゴスティックを模して作られたということを知りました。
結局、フライバーの販売と同時にポゴスティック各種も販売することにしました。
わたしと関社長との付き合いは、1981-2年からでしょうから
30年近く経つでしょうか。
バートンスノーボードの輸入元と販売代理店という関係が長かったのですが、
お互いにバートンのビジネスから離れても、いろいろお世話になりました。
実は1994年までバートンスノーボードを輸入販売していた、
いわば、わたしの以前の勤め先ですが、小倉貿易株式会社が倒産しました。
正式には破産なんですけど、これも悲しい話です。
小倉貿易でバートンスノーボードの輸入販売を開始したのが、1981年で、
当時はもちろん誰もこの商品がヒットするなどとは考えていませんでした。
もちろん当初の製品は、ベニヤの合板で、それが5万円以上もしましたから、無理もありませんでした。
関社長は、そんな時代からバートンスノーボードの東北地区の代理店を引き受けてくれたのです。
そのスノーボードのビジネスもやっと採算がとれるようになるのに5年掛りました。その後スノーボードは長野五輪から正式種目にもなり、2000年ぐらいにピークを迎えることになります。
フライバーを含めたポゴスティックのビジネスもスノーボードのビジネスといっしょのような気がしています。
ビジネスにも『時代の要請』というのが必要とされます。
つまり、その商品の必然性です。
「売れるものは売れるし、売れないものは売れない」
だから、売れるものを持ってきて売るのが一番効率がいいのです。
売れるか売れないかわからないから苦労している。と人は言います。
バートンスノーボードは売れる商品だったのです。
売れる商品だからすぐに売れるとは限りません。
バートンスノーボードが日本で売れ始めたのは、1987年になってからです。
ポゴスティックもフライバーも売れる商品だと確信しています。
それは、関社長のひらめきで始まったからです。
残念ながら、ポゴスティックやフライバーが日本でヒットした姿を目にすることなく関社長は他界されてしまいました。
しかし、これからもきっと天国から見守ってくれていると思います。
関社長と関係した方全てに葬儀のご案内を差し上げられていないかもしれません。
もしこのブログをご覧になって、始めて、お気づきの方はご一報いただければ幸いです。
葬儀の日程は下記の通りです。
通夜 6月25日(金)午後6時
告別式 6月26日(土)午後1時
場所 仙台葬儀会館 斎苑 別館
仙台市青葉区木町通り2-2-13
022-271-2230










