こんにちは! ローガンです。

大学での生活にもようやく慣れてきました。相変わらずぬるい点は気になりますが・・・・・

 

テーマとは関係ないですが、トリミングのお店のナノバブルでまったりとしているナーちゃんです。

 

さて僕は直接、学生さん達を指導する立場にはありません。それでも意見を求められる時があり、その際は可能な限りコメントしていますが、気になるのは学生さんがあまり調査というものを重要視していないということでしょうか。

 

学生さんなので、学業が中心になるのは仕方ないですが、それでも自分のテーマについてはもっと調べた方が良いと思うことがあります。同じようなテーマはそれこそ世界の誰かがやっています。今はネットで世界中の文献情報を得ることができますので、少しの苦労で簡単に調査をすることが可能です。

 

あくまでも個人的な意見ですが、研究は7割が調査。その上で仮説をたて、その仮説を検証するためのプロトコルを作成、実施し、結果を検証するという流れになると思います。

特に僕の場合、予算がほとんどないので、ネットでの調査がほとんどです。中には、最新機器を用い、それこそ一回走らせると100万単位の予算がぶっ飛ぶ実験(いわゆる成金実験)もありますが、そんな予算をガバガバ使えるわけでもない僕は必要最小限度のコストで最大の効果を得るために日々考えています。

 

昔、大学の先生に言われたのは、

"考えるのは無料!"

 

現在、実施している研究テーマについてはまだきっかけ程度しか掴んでいませんが、理想的には月並みな技術、月並みな機材を用いて、最小限度のデータで新しい考え方を見出し、論文化すること。まあ、あくまでも理想ですが。

 

それでは、また!

こんにちは。ローガンです。

久しぶりの更新になります。

家内が他界して半年。ようやく生活のリズムも落ち着いてきました。

 

4月からは地元の大学で勤務しています。

所属は研究推進機構の先端●体医薬開発●ンターですが、実際の配属先は医学部の微生物学教室です。

まあ、これまでの経験から考えたら、微生物学教室が妥当ということなのかもしれません。

 

企業ではなく、一応、国家公務員という立場になったのですが、色々と驚くことがありました。

一言で言うと、「ぬるい」

研究室自体は新しく、コロナバブルで予算もばら撒かれ、最新の機器や機材が揃っているので、特に問題なし。教授も長崎大学出身で、僕も知り合いが多いので、結構、ストレスなく付き合えています。というか、研究から離れてしばらく経っているので、ほぼ浦島太郎状態。

まあ実質、僕が直接指導するわけでも無いので、問題はありません。

 

が••••••••

 

大変申し訳ないですが、事務方の人はいわゆる「お役人様」ですね〜。

 

4月1日に初めて行った際にも、僕の配属先が微生物であることも知らず、全く別の部屋に案内されました。

更には仕事で使うパソコンも教室で準備されていることも知らず、新しいのを注文済みだったとか。

教授と事務方が廊下で話しても、全く話が噛み合わず、延々20分近くも立ち話をしていました。色々と聞いてみると、現場と事務方でほとんど連絡は無いらしく、同じようなことがほぼ毎日あるようです。結局、新しく買うパソコンはギリギリ、キャンセルできたらしいですが(新しいのにしておけばよかったかも〜)。

 

大阪の会社に勤務した際は、入社当日に保険証と社員証が交付されましたが、大学の場合、保険証が来たのが10日後、職員証はようやく一昨日、渡されました。

就業管理システムについても、「これを読んでおいてください」と書類を渡されただけで、ほとんど説明なし。実はその方も契約社員らしく、あまり内容を知らなかったようです。

 

すでに入ることが決まっているのであれば、あらかじめ準備しておくのが普通だと思いますが、どうもこの普通というのが通じないらしいです。詳しく聞くと、国立大学とはいえ予算が厳しいらしく、一部の正規職員の他はほぼ契約社員だとか(それでも人数だけはたくさんおられました)。

そりゃ、あまり知らなくても仕方ないかもしれませんが、正規職員の方は何をやっているのでしょうね〜。

 

まだまだ、これから色んなことが出てきそうです。一体どうなるやら。

 

それでは、また!

こんにちは。ローガンです。

 

早いもので家内が他界して3ヶ月近くになります。

最近は生活のリズムも何とか正常に戻りつつあります。

まだ遺品の整理も途中ですが、少しずつ進めていこうと思っています。

 

家内が存命ならこのまま温泉三昧の予定でしたが、相方がいなくなってしまいましたので断念。

いつまでもウジウジしていても家内に怒られるので、働くことにしました。

 

再起動に相応しい絵ではありませんが・・・・

 

人生初めてのハローワークでどうなるかと思いましたが、思いのほか簡単に決まりました。

今度の勤務先は大学の医学部で、抗体開発センターのコーディネーターです。

コーディネーターというのは、研究内容を他の施設に紹介したり、共同研究の手筈を整えたり、企業に紹介するような仕事とのこと。

と言っても常時、コーディネーターの仕事があるわけでもなく、微生物学教室での勤務の兼務らしいです。

個人的には微生物教室の方がまだしも馴染みがあるのですが・・・・・

 

4月からの勤務なので、それまでに頭をリハビリしておかなければ。

 

それでは、また!

 

 

 

こんにちは。ローガンです。

 

家内が他界してから2ヶ月。時間が経つのは早いものです。

最近はようやく落ち着いてきましたが、時間があると後悔の想いだけが頭によぎります。

 

今更ですが、これまで気になっていたことをつらつらと書いてみようと思います。

 

家内は度重なる点滴で腕の静脈がボロボロだったので、鎖骨部位にカテーテルを設置しました。

ただ、最初のカテーテルは途中で曲がっており、点滴もろくに通りませんでした。おまけに感染していて、炎症が起こっていました。そこで、反対側に新たにカテーテルを施術したのですが、これもまた感染。抜いた時に膿汁が噴き出たぐらいでした。

血液培養の結果から敗血症になりかけていて(別に血培するまでもない)、血液からはグラム陽性菌と陰性菌が検出されました。まあ、グラム陽性菌(黄色ブドウ球菌)ぐらいは針を挿入時に皮膚から侵入することもまれにあるので仕方ないですが、グラム陰性菌が検出されたということは、施術者の手が汚染されていたと考えるのが妥当でしょう。

トランスロケーションと言って、免疫の低下した患者の腸管から菌が血流に移行する場合もありますが、状況から考えて手術の際に感染していたと考えるのが普通です。このことを担当の外科医に言ったところ、「あ〜、感染してましたか〜」でお終い。ちなみに医師が手を洗わないことは海外を含む学会でも問題になったこともあり、"Doctor, please wash your hands"というポスターができたぐらいです。

 

一応、富山では中核となる病院(名前は言いませんが、富山中央病院)なのですが、なんと感染症専門医は一人しかいないとのこと。抗菌薬の使い方を見ても、教科書通りの投薬しかしていませんでした。あまりにもレベルが低い。

 

手術を通じて、この数年間、担当していたのは産婦人科の女医さん。再発時に薬が効かなかった場合の対応を聞きましたが、その答えが、「まっ、そうなったら死ぬしかないわね〜」の一言。あまりの無神経さに愕然としました。

おまけに亡くなる日は学会で出張とのことで、死亡判定は宿直の他科の医師にして貰いました。そのことについても、何の音沙汰も無し。

 

最後に入院したのが、緩和ケア病棟。

この病棟は患者さんの痛みをケアし、安らかに死を迎えるための病棟、のはずだったのですが、廊下を通ると、各部屋から「痛い!」、「助けて!」という悲鳴があちこちから聞こえてきました。

 

実際に家内のケアもして貰いましたが、点滴されるのはアセトアミノフェンとロキソニンで、たまにレスキューと称して15分ごとに痛み止めの注射だけ。アセトアミノフェンは要はカロナールの成分で、よく使われているのが風邪薬。ロキソニンは腰痛のお薬。

僕は痛みの専門ではないので、よくわかりませんが、これが全国の緩和ケア病棟での標準療法なのでしょうか。

 

看護婦さんは夜中でも嫌な顔一つせず、本当によくして頂きましたが、緩和ケアの医師が顔を出したのは一回のみ。それもレスキューの薬が効きにくいので、僕が増量を依頼した際に、本当に嫌そうな顔(どう見ても面倒くさいとしか思えなかった)をしながら、「まあ、仕方ないですね〜」と言って顔を出しただけ。それ以来、家内が亡くなるまで一回も顔を出しませんでした。

 

こうなると、地方の病院というのは治りやすい患者のみ対応して、治らない、または治りにくい患者に対しては、死を迎えるためだけの施設のような気がしています。

 

今更ながら、なぜ国立がんセンターの治験が失敗した時点で東京の他の専門病院に行かなかったのか、判断を後悔しています。

では他の県内の病院であれば良かったのか・・・・・

答えはノーだと思っています。程度の差こそあれ、ともかく地方の病院の医療レベルは極めて低い。今後、何かあれば無理をしてでも東京の専門病院にかかったほうがマシだと思います。

 

それでは、また。

こんにちは ローガンです。

 

家内が他界して、しばらくブログを書く元気もありませんでした。

先週、東京の菩提寺で四十九日法要が終わりました。

家内が寂しがりますので、遺骨は1年は家に置いておくつもりです。

 

今でもまだ家内が他界したことの実感に乏しく、まだ入院しているような気になります。

ただ、いつまでもウダウダしていても家内に怒られますので、少しは前を向きたいと思っています。

 

私事ですが、明日は次の就職先の面接があります。

もう企業に勤める気はさらさらないので、今度の勤務先は大学の研究センターになります。まあ、面接で落とされるかもしれませんけど。

 

タイトルに書いた「焦らず、慌てず、諦めず」は家内がいつも口にして、紙に書いて貼ってあったものです。

これを教訓にして、前に進みたいと思います。

 

それでは、また。

 

12月3日 19時18分 家内(61歳)は天国に召されました。

 

2018年に卵巣癌を発症し全摘、プラチナ製剤による標準療法を行いましたが、2年後に再発。

プラチナ製剤の増量でも効かず、アバスチン、リムパーサなどの分子標的薬も試しましたが、明らかな結果は得られませんでした。

2022年12月に国立がんセンターの治験に応募し、外資企業のPD-1阻害薬を試しましたが、二回目までは腫瘍のサイズが2割ほど減少したものの、その後、残りの腫瘍が増大し、2023年7月で治験は終了しました。

 

その後、新たな治験にチャレンジすべく体調を整えていましたが、ヘモグロビンの値が規定値に届かなかったため、参加は出来ませんでした。

本年10月からは体調が急速に悪化し、筋力と体力の低下が目立つようになりました。この時点で悪液質であることを認識すべきだったのかもしれません。それでもまだゆっくりとは歩く元気がありましたが、11月になってから歩くことも食べることもままならぬようになりました。

11月12日に緩和ケア病棟に入院しましたが、その時点で左上腕部の血栓とCVポートの感染が発覚し、まずは血栓と感染症の治療を継続していました。

CT画像からは癌性腹膜炎と胃の脇の腹膜播種結節が増大化、上腹部のリンパ節転移も増大し、縦隔リンパ節まで進展、多発性肺転移も出現しており、右肺胸水の浸潤、少量の心嚢水も観察されました。医師からはよくこんな状態で我慢をしていたと吃驚されていました。

 

3日前まではある程度は話ができる状態でしたが、翌日より痛みと呼吸困難で意思疎通が困難になりました。癌の痛みはいくら痛み止めを入れても、ほとんど効かないこと。15分ごとにレスキューの注射を受けましたが、それでも痛みは収まりませんでした。

 

本日15時から一過性に症状が改善し、息子達ともある程度は会話ができたそうですが、私が到着した16時ごろからほとんど意識がありませんでした。いくら酸素を入れても、血中酸素飽和度は80%代で、急速にチアノーゼの症状が現れてきて、17時18分にとうとう息を引き取りました。最後は穏やかな死に顔だったことだけが救いです。

癌が再発してからも色々なサークル活動やパステル教室、ウクレレ教室などを受講し、町内に古民家カフェを開きたいということで、県の起業塾にも参加していました。余程、僕などより人脈も積極性もあったと思います。

唯一、10月に家族(家内、息子二人とシェルティ)を連れて、温泉に行けたことが最後の思い出になりました。

 

国立がんセンターの治験が失敗した時点で、トモセラピーのような物理学的手法での治療に切り替えなかったのが心から悔やまれます。自分が阿呆だったことを許せません。

しばらくは葬儀のゴタゴタや親族への連絡などで忙しいので、多少は気が紛れるかもしれませんが、その後が怖いです。

自分はどうなってしまうのやら。

 

しばらくはブログを書く元気もないかもしれません。

こんにちは! ローガンです。

家内の病状が進行し、今は緩和ケアの病棟にいます。

癌の進行だけでなく、中心静脈カテーテルからの感染による初期の敗血症、左上腕部の血栓などもあり、まずはこれらの対処をしているところです。

癌自体の治療はしない、というか出来ない状況ですので、一度退院したら、放射線(トモセラピー)による自由診療を受けたいと思っています。(まだまだ諦めません)

とてもブログを書く気力がありませんので、しばらくブログを停止したいと思います。

 

ローガン

こんにちは! ローガンです。

この季節になると悩ましいのが、庭の木の落ち葉

 

夏にはこんなに茂っているので、秋から冬になると落ち葉の量が半端ではありません。

これまでは袋に詰めて、可燃ゴミで出していましたが、昨年、堆肥枠を作ってからは集められるだけの枯葉を入れています。

昨年入れておいたのは、良い腐葉土になったので、今年も堆肥作りをしています。落ち葉と米糠(近くの精米機からタダでもらえます)をミルフィーユ状に積み重ね、水を撒いておけば半年程度で腐葉土になります。

そう考えるとこれまで厄介者だった枯葉が資源のように見えてしまうから不思議

 

ただ、まだ収集途中なのにすでに堆肥枠の8割ほどが埋まっています。

 

 

まだまだ落ち葉は続くので、入り切るかちょっと心配です。

 

それでは、また!

こんにちは! ローガンです。

今日の新聞見たら、一面が戸田市の立て篭もり事件ではなく、クマさんでした・・・・・

 

 

僕の住んでいる町も他人事ではありません。昔の話ですが、クマが老人ホームのガラス戸をぶち破って、置いてあった柿の実をむしゃむしゃ食べていたとのこと。近くの小学校の周りを走り回っていたとも聞いています。

なにせどこの家にも柿の木が生えているので、これからナーちゃんの夜の散歩も気をつけなければならないかもしれません。

 

それでは、また!

 

こんにちは! ローガンです。

本日、あまりにも寒かったので初めて薪ストーブに火を入れました。

たった数本を燃やしただけですが、それだけでも家中がポカポカになりました。

 

さて、次の積みプラ制作ですが、選んだのがこれ

 

 

アスカモデルのシャーマンEZ8

ブログを見ていると、ドイツ戦車を作っている方が圧倒的に多いですが、僕としてはシャーマンの雑魚感が好きです(ザクに通じるところあり)。

映画のフューリーの影響もあるかもしれません。

 

実はこれまで戦車のモデルは一回も作ったことがないことに加え、設計図を見たらこれがまた不親切。

ランナーの部品リストもありません。戦車を良く作っている方にとっては、当然なのかもしれませんが、初心者にはかなりのストレス。

まあ、それでも少しずつ図面を解読(?)しながら、ちまちまと作っているところ。

 

あまりにもストレスなので、その間に作る簡単モデルとして選んだのがPLAMAXのライディーン

昔にレジンキットで出ていた速水仁司氏デザインのガレージキットをスキャンして、プラ製品にしたとのこと。

昔、レジンキットを手に入れようとしましたが、完売済みで泣く泣く諦めたモデルです。

 

ロボットにこの姿勢は絶対に無理だと思う

 

腕よりも長い弓。確か折り畳んで腕の横に収納されていたはずだが・・・・

 

組んだところ、合いが悪い部位はなく、ほとんどカッチリ組めました。塗装を意識しているのか、分割の仕方も好感が持てます。

特に工夫するところはないので、設定通りに組んで、色付け。

下処理して黒サフを吹いたのち、ボディはガイアノーツのアイアンブルー、赤の部分は同じくガイアの赤さび色→ブライトレッド、黄色の部分はガイアのエヴァイエロー、黒い部分はニュートラルグレーIV、白い部分はニュートラルグレーI、水色部分は以前にスレイプニールで使った色をマックス塗り。

墨入れをした後、古代像のイメージをつけるために全体にウェザリングマスターAセットで汚しを少々。

矢の部分は黒塗りをした上から、クリスタルカラーのトパーズゴールドとダイヤモンドシルバーを使いました。

 

届いて4日で出来上がってしまいました。まあ、僕の腕ではこんなものでしょう。

シャーマンの方はいつ出来ることやら。

 

それでは、また!