12月3日 19時18分 家内(61歳)は天国に召されました。

 

2018年に卵巣癌を発症し全摘、プラチナ製剤による標準療法を行いましたが、2年後に再発。

プラチナ製剤の増量でも効かず、アバスチン、リムパーサなどの分子標的薬も試しましたが、明らかな結果は得られませんでした。

2022年12月に国立がんセンターの治験に応募し、外資企業のPD-1阻害薬を試しましたが、二回目までは腫瘍のサイズが2割ほど減少したものの、その後、残りの腫瘍が増大し、2023年7月で治験は終了しました。

 

その後、新たな治験にチャレンジすべく体調を整えていましたが、ヘモグロビンの値が規定値に届かなかったため、参加は出来ませんでした。

本年10月からは体調が急速に悪化し、筋力と体力の低下が目立つようになりました。この時点で悪液質であることを認識すべきだったのかもしれません。それでもまだゆっくりとは歩く元気がありましたが、11月になってから歩くことも食べることもままならぬようになりました。

11月12日に緩和ケア病棟に入院しましたが、その時点で左上腕部の血栓とCVポートの感染が発覚し、まずは血栓と感染症の治療を継続していました。

CT画像からは癌性腹膜炎と胃の脇の腹膜播種結節が増大化、上腹部のリンパ節転移も増大し、縦隔リンパ節まで進展、多発性肺転移も出現しており、右肺胸水の浸潤、少量の心嚢水も観察されました。医師からはよくこんな状態で我慢をしていたと吃驚されていました。

 

3日前まではある程度は話ができる状態でしたが、翌日より痛みと呼吸困難で意思疎通が困難になりました。癌の痛みはいくら痛み止めを入れても、ほとんど効かないこと。15分ごとにレスキューの注射を受けましたが、それでも痛みは収まりませんでした。

 

本日15時から一過性に症状が改善し、息子達ともある程度は会話ができたそうですが、私が到着した16時ごろからほとんど意識がありませんでした。いくら酸素を入れても、血中酸素飽和度は80%代で、急速にチアノーゼの症状が現れてきて、17時18分にとうとう息を引き取りました。最後は穏やかな死に顔だったことだけが救いです。

癌が再発してからも色々なサークル活動やパステル教室、ウクレレ教室などを受講し、町内に古民家カフェを開きたいということで、県の起業塾にも参加していました。余程、僕などより人脈も積極性もあったと思います。

唯一、10月に家族(家内、息子二人とシェルティ)を連れて、温泉に行けたことが最後の思い出になりました。

 

国立がんセンターの治験が失敗した時点で、トモセラピーのような物理学的手法での治療に切り替えなかったのが心から悔やまれます。自分が阿呆だったことを許せません。

しばらくは葬儀のゴタゴタや親族への連絡などで忙しいので、多少は気が紛れるかもしれませんが、その後が怖いです。

自分はどうなってしまうのやら。

 

しばらくはブログを書く元気もないかもしれません。