浅草 並木藪蕎麦
職場の90kgと、雷門近くの「並木藪蕎麦 」に行って来ました。
大正2年創業。GWと言う事で10人くらい並んでました。
まずはビールと板わさ(共に700円)を。
この板わさ、食べかけじゃないです。この量でなんと700円!!
かまぼこ・わさび共に旨し。
そしてざるそば(700円)。
これ、ざるが盛り上がってるため、見た目以上に少ないです。3すすりくらい。
盛り上がってるのはたぶん水切りのため。
ここのつゆは非常に塩辛いのです。清々しいほど。
ここのそばを食うと、「江戸っ子はそばの先にちょっとしかつゆを付けない」と言うのがわかります。
逆に言えば他の店で「つゆに蕎麦ドボドボ付けるんじゃないよ」と言ってる人は、たぶん野暮。
ちなみにここ、大盛はありません。空腹時なら5枚食える。3500円w
最後に蕎麦湯をすすって、混雑してる店を後にしました。
俺は好きですよ、この店。
そろそろ天皇賞についても書かないと

3Bはおそらくフォゲッタブルとナムラクレセントの2頭。ただしステイヤーでは有りません。
フォゲッタブルはエアダブリンが被ります。
ステイヤーズS、ダイヤモンドSを勝ってぶっつけ。
ただしエアダブリンは2Bでした。
出来ればスズカマンボの年になってほしいなあ。
私はビッグゴールド(1A)から馬連ワイド総流ししてまして、100万超えしました。
今年はそういう人気薄の高評価馬がいないので、ジャミールから816点買って、ヒモ荒れを願うだけです。
GWも仕事なんで、後楽園あたりで買うことになりそう。
ふろーすれ1(携帯からなんでミン・オン・トゥイーはコピペしません)
「ど」から始まる・・・」

毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミン・オン・トゥイーのバラード 1994年
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミン・オン・トゥイーのバラード 1994年
三浦 久
ひとり上手

ブログネタ:一人では行けない場所
参加中
一人カラオケ まったく苦にならない
一人焼肉 すいてればOK
一人ファミレス カウンターあるしね
一人マック 二人以上ならあんな店行かない
一人遊園地 ディズニーランド行った事ない(シーに1回)そもそも乗り物乗れない
一人ホモ雑誌の多い書店 い、いや間違えて入っただけですってば!!
一人ボウリング すいてればOK でもボウリング自体やんない
一人バイキング 客層によるなあ
一人スターバックス 2人以上でも1回も行った事ない。PRONTOで昼間っからプレミアムモルツ飲んでりゃ幸せ
一人手賀沼公園 可哀想に、失職中なんだね…
一人ラブホ 休憩元常連(今はまん喫とか個室ビデオとか)
一人温泉旅館 すわ旅先で自殺か?
絶対欲しくない賞 ゆうもあ大賞
ひとり居酒屋 のど渇いてれば関係ない
ひとり寺社 これはあまりないなあ
ひとり南栗橋 昼間待合室で寝てる男がいたら、それは寝過ごした俺
ひとり久喜 それも寝過ごした俺
ひとり寿司屋(非回転) 客単価5000円までなら
ひとりタクシー 軽でいいから初乗り500円にしろ
ここから先は飛ばし読みしてください。
ミン・オン・トゥイーのバラード 1994年 三浦 久
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
締めに「ミン・オン・トゥイー」

今は「ふろーすれ1」と署名してるだけです。
ミン・オン・トゥイーのバラード
1994年 (クリックすると聞けます)
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
十両に昇進して
ブログネタ:ケータイの写真、いちばん最近撮ったのは?
参加中
忘れた頃にアメーバストラップが送られてきました。
うーん…
ミン・オン・トゥイーのバラード
1994年 (クリックすると聞けます)
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
終電で寝過ごした>>1
ブログネタ:自分がケチだなと思う瞬間は?
参加中
きのう終電で寝過ごしまして・・・
駅前にはまん喫も個室ビデオもカラオケ屋もない。ホテルは有るけどそんなに金出したくない。
結局タクシーで帰りました。約5000円。
途中で金足りないのに気づいて一旦コンビニで降ろしてもらいましたわ。預かり金置いて。
All About 「恋愛」 デート、合コン。割り勘の上手な切り出し方
All About 「家計管理」 お金ブスがバレる意外な瞬間
ミン・オン・トゥイーのバラード
1994年 (クリックすると聞けます)
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
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最後まで聞いてくれて
宇宙では

ピュッて出したのフワッと浮くのかなあ。
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ふろーすれ1
ミン・オン・トゥイーのバラード
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信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
マグロの頭肉♪

私は海鮮 派!
仕事終わってから25ティムポと水道橋の「日向丸
」へ。(ひなとまると読みます)
回転寿司ですが小上がりにはテーブルもあり、そちらへ。
まずはプレミアムモルツ
これだけで店の印象upです。
真ん中トリ貝・北寄貝・生たこ
右マグロの頭肉♪
うまいです。
うまいです。
一の蔵飲んで酔っ払いまん喫へ。
馬券買えずじまい、そしてそれが正解。
東京12Rはサクラヒストリー(1A) から総流ししてればなあ。
明日はサンテミリオンから総流ししてヒモ荒れ狙いの予定。でも天皇賞で8万使うんで今週お休みするかも。
最近ブログネタは「ものいい」が多いのでちょっと続けようかな。
山菜も割りと好きです。
北東北で食べられる「ミズコブ
」とか、うまいですよ。コリコリシャキシャキしててね。
都内でそう食えるもんではありませんが、以前草加市谷塚の「佐井村」って小料理屋で食いました。塩漬けうまい。
たけのこ懐石を食いに、京都まで行ったこともあります。
若竹煮(わかめと筍のお吸い物風)、田楽・刺身・焼き・筍ご飯・あとなんだっけ?
上品な味にすべて木の芽をあしらい、逆にその木の芽が繊細な味を邪魔しておりました。うまかったけど。
以前「すしざんまい
」で食べた「菜の花の握り」
これもうまい。上に鰹節が乗ってますが、これは辛子のほうがいいかも。
などと水道橋のまん喫からupして見ました。
ふろーすれ1
ミン・オン・トゥイーのバラード
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しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
気がついた時 ぼくは
病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
彼らを吹き飛ばした
一年足らずの間にぼくは
家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
ぼくにはどうしてもわからない
なぜ人と人が殺し合うのか
多くの生命が失われた
主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
南京 アウシュヴィッツ クロアチア
多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
空は透きとおるように青かった
最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
ありがとう ぼくの話を
最後まで聞いてくれて
ミャンマーからの留学生
しばらくの間 ぼくの話に
耳を傾けて欲しい
去年の春 ぼくは
信州大学に入学した
雪をかぶった日本アルプスが
とてもきれいだった
思い返せば昔のこと
ぼくはベルギーへ行った
化学兵器の研究のため
政府から派遣されて
来る日も来る日も没頭した
毒ガスや細菌の研究に
素早く効果的に人を殺す
化学兵器ををつくるために
ベルギーへ行って2年目の夏
遅ればせながら気がついた
政府はぼくが作る化学兵器を
国民に向けるだろうと
ぼくは何日も考えた
こんなふうに生きて行きたくないと
そしてついに決心した
国へもどることを
ぼくの父は元軍人で
政府の高官だったが
政府のやり方に嫌気がさし
密かに活動を始めていた
ぼくは政府の方針に逆らい
勝手に帰国したかどで
刑務所にぶち込まれ
毎日取調べを受けた
そのうち大規模な民衆運動がおこり
国は無政府状態におち入り
全ての政治犯は釈放された
ぼくもその中のひとりだった
このまま国に残ることは
あまりにも危険だった
ぼくは日本へ行くことを決め
東京の日本語学校に入った
その間に国の名前は
ビルマからミャンマーに変わり
軍事政権が樹立され
銃口を国民に向けた
ぼくには三人の弟がいたが
一番下の弟は
おととし反政府デモの最中に
撃ち殺された
それからひと月もたたないうちに
母は病に倒れ
悲しみのうちに息を引きとったと
父の手紙が伝えてきた
どうしたらいいかわからなかった
でも国へ帰ることはできなかった
死んだ母や弟を思い
辛い日々が続いた
日本語もかなりわかるようになったし
しばらく日本にいるのなら
日本の大学に入学して
勉強したいと思った
去年の春 静岡大学と
信州大学に合格した
どっちがいいか日本語学校の
先生に相談した
「君はミカンとりんごの
どっちが好きか」と彼はきいた
ぼくが「りんごです」と答えると
「じゃあ信州大学だ」と彼は言った
四月になり、学校が始まり
ぼくは松本へやってきた
山に囲まれた美しい町
心に平和がもどってきた
去年の6月 父と弟たちは
イギリスへ亡命した
ぼくは彼らに会うために
夏休み イギリスへ行った
彼らはバーミンガム郊外の
小さな家に住んでいた
かばいあい 身を寄せながら
ひっそりと生きていた
忘れもしない 8月3日
ぼくはひとりでドライブに出た
グラスゴーへ向かう田舎道
トラックに追突された
車が川に落ちる前に
ぼくはなんとか飛び降りた
薄れゆく意識の中で
走り去るトラックが見えた
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病院のベッドに横たわっていた
大腿部骨折 頭部打撲
全治3ヶ月だった
父と弟たちが知らせを受けて
あわてて病院へかけつけた
父はぼくの手を握りしめ
「しっかりしろよ」と言い続けた
彼らはその晩もどって行ったが
決して家にはたどりつかなかった
車に仕掛けられた爆弾が
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家族をみんな失った
なぜ父が母が弟たちが
殺されなければならなかったのか
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主義や正義のために
ベトナム アフガニスタン カンボジヤ
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多くの生命が失われた
主義や正義のために
りんごが赤く色づく頃
ぼくは松本へもどってきた
日本アルプスはまた雪をかぶり
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最後にひと言 日本政府に
言っておきたいことがある
ミャンマーの軍事政権は
日本のODAが支えていることを
ぼくの名前はミン・オン・トゥイー
ミャンマーからの留学生
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