「AKB48はいかなる芸術か」
「僕の作品は…人びとが対話するためのプラットフォームだ。…あなたは何かを鑑賞するのではなく、あなた自身が作品の一部なんだ」―ティラバーニャ
リクリット・ティラバーニャ「無題(Free/Still)」1992/1995/2007/2011-MoMA
哲学者ウォルトン(Kendall Walton)は、適切なカテゴリーのもとで接した時にのみ芸術作品を正しく知覚出来るとした。AKB48がいかなる芸術かを考えるには、この議論をパフォーマンス・アートにも拡張して考えてみればよい。
ギャラリーでタイ・カレーを振る舞うティラバーニャ(Rirkrit Tiravanija)の作品が「芸術」でありえるのは、別に彼の料理が上手だからではない。そうではなく彼の作品がギャラリーという場(アートスペース)でコミュニケーションを可能にするからだ。
ゆえに、彼の作品の評価は料理の上手さではなく、そこでコミュニケーションが成立するか否かで決められるべきものだ。もし、料理の上手さでそれを判断しようとする人がいれば、その人はティラバーニャの作品に対する接し方を分かっていない。
AKB48もそのようなものだ(と僕は考える)。
彼女たちが提供するものは歌とダンスだから、一見そうしたものの巧拙で判断したくなる。しかしそれは、ティラバーニャの作品をその料理の上手さで判断するようなものだ。その意味において、表現主義を提唱する町山智浩同様に、歌唱力という物差しで測ろうとする竹中優介もAKBの真価を理解していない。彼らは、芸術の懐の広さを理解しない。
歌もダンスも大して上手くないAKB48がなぜ成立しているか。それは、彼女たちが歌やダンスといったパフォーマンスを通じて、それとは別のものをそこで提供しているから。AKB48が実際に提供しているもの、それはファンとのコミュニケーションだ。つまり、コミュニケーションが成立していれば、そのパフォーマンスは成功していると言える。
レスやMIX、口上に振りコピ…劇場ではメンバーとのコミュニケーションが前景化する。僕のブログを振り返ってみればいい。いつも誰々にレスもらったとか、そんなことしか書いてない。AKB48はコミュニケーション駆動型の芸術(大衆芸術)なんだ。
AKB48は単に見るものじゃない、単に聴くものでもない。視線を交わし、ともに声を上げ、メンバーと同じ空間を体験するものだ。したがって、AKB48はメンバーだけでは成立しない。それこそが、歌番組でのAKBがつまらない最大の理由だ。それは別にAKBが他の「アーティスト」に劣っていることを意味しない。それらはそもそも別のカテゴリーで捉えるべきものだ。
もちろん、だからと言ってAKBがつまらないパフォーマンスをしても良いという話にはならない。手を抜いたようなパフォーマンスをしていれば客足は遠のくし、その場にいる観客も退屈して寝てしまうだろう。そこではもはやコミュニケーションは成立していない。その意味において、そのパフォーマンスは失敗している。
ただそれは、(何度も言うように)パフォーマンスの巧拙がAKB48の芸術としての判断基準になるという意味じゃない。ファンが食い入るような眼差しでメンバーを見つめ、熱狂的に声を上げるようなパフォーマンスが称えられるべきなのは、そのパフォーマンスがそのような仕方でファンとのコミュニケーションを活性化させているからだ。
ここでは、コミュニケーションこそ神なのだ。