アイドル文化と二次元文化:ヲタクとおたくの間で | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

「アイドル文化と二次元文化」


 我々は作り手であり、また同時に受け手でもある。「二次元文化」の駆動力は、そうした自給自足の構造によって生まれている…ということを、『冴えカノ』はよく示している。

 主人公の安芸くんは最強のヲタであり、かがるが故に、最強のクリエイターを見出し、また自らもクリエイターとなる資質を秘めた人物だ。クリエイティブなものは、むしろオタクの中にこそ潜んでいる。これは作者である丸戸氏の作家観でもあるのだろう。「冴えカノ」二期はとくに作家論の傾向が強かった。

 そして、ゲーム制作と作品世界の現実がパラレルに進行していく「冴えない彼女の育て方」は、また同時にクリエイター=ヲタの現実を描いた作品でもあった。どれだけリアリティがあるかは別として、そこには僕たちが抱える現実の問題/妄想が現れていた。


 「冴えカノ」劇場版を見ながら、僕はずっとひとつのことを考えていた。

 10年前、二次元文化と匹敵する勢いに思えた僕らのアイドル文化は、もはや息も絶え絶えになっている。いったい、どこが違ったのだろう。ともにヲタが支える「オタク文化」であることに違いはない筈なのに。

 でも、それが違っていたのかもしれない。二次元文化では、ヲタからクリエイターへの道はシームレスに繋がっている。好きなキャラクターを模写したり、「自分だったらこうする」ってストーリー/設定を思い描くこと自体がクリエイターへの道につながっている。ファンが自らの想いを込めて作る二次創作は、クリエイターへの第一歩であり、コミケはヲタとクリエイターの境界が消失する場だ。

 だから、二次元文化には僕らヲタの現実の問題/妄想が現れてくる。近年くさるほど見かける異世界転生ものだってそうだ。なぜあれが有効かと言えば、王道のファンタジー世界を描きつつも、僕らが抱える現実の問題/妄想をそこで処理できる仕掛けになっているからだ。

 でも、アイドル文化はそうじゃない。ヲタとアイドル、クリエイターの間には埋めがたい断絶が潜んでいる。(みーおんがそうであるように)たとえアイドルになるヲタがいたとしても、それはほんの一握りに過ぎない。アイドルはどこまでも「選ばれた」存在であり、ヲタはただそれを支えるだけだ。その立場が入れ替わることは、どこまでいってもない。

 アイドル文化においては、ヲタがクリエイターになることも基本的にはない。だって、アイドルを追いかけたところで、コールやミックスがうまくなることはあっても、作詞や作曲が出来るようになるわけじゃないから。そこが二次元文化とは決定的に異なる。一言で言って、アイドル文化にはTIFはあってもコミケはない。

 

 そして、卒業したアイドルが「アイドル文化」のクリエイター側に回ることも基本的にはない。48では、指原莉乃や沖田彩華がわずかにアイドルプロデュースを手掛けているに過ぎず、基本的にはみな卒業したらアイドル文化から離れていってしまう。

 だからこそ、この文化はつまらない。だってここには、僕たちの…そして彼女たちの現実の問題/妄想が現れてこないから。僕たちが…彼女たちが胸の内に抱えているこのモヤモヤが、実際の表現となってステージに現れてこない。アイドル文化は、少なくとも48は、僕らが…彼女たちが抱える現実の問題/妄想を表現として表す仕掛けを持っていないんだ。

 いくら秋元康が優れたクリエイターであっても、いくら今村ねずみが名の知られた演出家であっても、その表現が僕を突き刺してしまうことはない。だって、僕が抱える現実の問題/妄想はそこには現れていないから。もちろん、『ずっとずっと』や『君の名は希望』のような例外はあって、それは秋元の作詞家としての才能を示すものだけれど、構造としてそうしたものを生み出す形にはなっていない。

 

 そして、メンバーが抱える現実の問題/妄想もまた、ステージには現れない。とくに秋元康が48に興味を失ってからはなおさらだ。メンバーはもっとクリエイター側に回っていくべきで、プロデューサーとしては大失格だった濱野智史もそこだけは正しかった。

 

 村山彩希の「レッツゴー研究生!」がなぜあれほど素晴らしかったかと言えば、あのときの彼女たちにしかできないセットリストだったからだ。いまの16期があれをやっても、あの感じは生まれない。近年、そうした力を持っていたのは、まほほんが卒業公演でやった『黒い羊』だけだった。いまや指原莉乃だけが…したがってイコラブだけが勝者でありえる。


 秋元康の言葉はいつも、どこか教条的に聞こえる。たとえそれが正しかったとしても、たったひとりの人間の価値観が支配している限り、その文化は発展しない。48では誰も彼もが同じ顔をして秋元康の言葉を鸚鵡返しする。僕にはそれが死ぬほどつまらない。

 

 35年前、中森明夫が自身や秋元康を代表とする「新人類」と、岡田斗司夫や庵野秀明を代表とする「おたく」の間に引いた境界線は、いまだ乗り越えられていない。彼らはいまだにこう叫んでいる。「僕らはおたくとは違うんだ!」と。