漫画版ナウシカについて | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
 
漫画版ナウシカについて
 
 また話題が思いっきり飛びますが…漫画版『ナウシカ』を読み直してみて、考えたことをしばし。
 
 映画版(1984)と漫画版(1982ー1994)ではストーリー展開がかなり違っていることはよく知られていますが、「漫画版では人類に未来がない」と書かれている記事を見かけました。ぼくの読みは少し違っていて。たしかに、腐海による浄化後に訪れるだろう「清浄な世界」では、(腐海のある世界に適応してしまった)ナウシカたち現生人類は血を吐いて死ぬと述べられています。
 
 しかしながら、「人類に未来がない」とすると、ナウシカがなぜ新生人類の卵を潰したかが説明できんのですよね。(現生)「人類に未来がない」のに新生人類の卵を潰してしまったら、ナウシカは単なる虐殺者でしょう。
 
 あそこでナウシカは何を選び取ったのか。それは、単純に言えば「清濁」を併せ呑む世界です。あの場所を作った人々が本来望んでいたこと、それは腐海によって世界を浄化し、そうして生まれる清浄な世界でした。そこで生を与えられる筈の新生人類は、争いを繰り返すナウシカたち現生人類よりもずっと「穏やか」であり、そこはまるで天国のような世界になっていたことでしょう。
 
 しかし、ナウシカは人類の代表として、そのような世界を拒否しました。あらゆるものに愛着を覚えるナウシカにとっては、腐海そのものですら愛おしいものであったのです。この世界は、光だけでなく光と闇とで成り立っており、汚濁もこの世界の一部です。楽しさや穏やかさだけでなく、苦しさや悲劇も人間の一部なんです。たとえ苦しくとも、それでも生きていく。腐海とともに、汚濁とともに生きる道をナウシカは選んだのでした。
 
 果たしてそれで生き残ることが出来るのか。ナウシカはこう答えます。「それはこの星が決めること…」
 
 宮崎さんのこうした考え方は、のちにつくられた『もののけ姫』(1997)にも明確に現れています。あの映画を自然vs文明の単純な構図で捉えてしまうと少し違っていて、「たたら場」でさえも否定されるべきものとしては描かれていないのですよね。
 
2.
 『ナウシカ』漫画版では、アスベルの存在感が(映画版に比して)不思議と希薄です。あれは、そうせざるを得なかったと思うのです。宮崎さんの初期監督作に登場するコナン(未来少年コナン)や、パズー(天空の城ラピュタ)、そしてアスベル辺りは、いわば宮崎さんの「光」の部分が現れたキャラクターです。
 
 それに対して、レプカ(未来少年コナン)やムスカ(天空の城ラピュタ)には、宮崎さんの闇の部分が現れています。注目すべきはアシタカで、祟られて故郷を追われた彼は光の部分と闇の部分を両方備えています。
 
 だからこそ、『もののけ姫』(もっと言えば『トトロ』以降の宮崎作品)にはレプカ/ムスカが登場しないわけでしょう? 漫画版『ナウシカ』で清濁(光と闇)を併せ呑むという結末を描いたことで、「光と闇を切り分けて光が闇を打倒することでハッピーエンド」みたいな筋書きを描けなくなったんじゃないでしょうか。
 
 映画版『ナウシカ』の結末が「宗教になってしまった」とは、宮崎さん自らの反省の弁です。実際、あの場面を見るとナウシカはまるで「救世主」であるかのごとく見えます。やや強引に言ってしまえば、人類に光をもたらす存在にね。
 
 漫画版のナウシカは、その反省もあって、映画版よりも遥かに重い十字架を背負った存在として描かれています。そのため、アスベルとは釣り合わなくなってしまうのですよね…。清濁併せ呑む存在であるからこそ、清い存在(アスベルが本当に清いのかは異論の余地があるとは思いますが…少なくともピュアな存在であることは間違いないでしょう)とは相容れなくなってしまう…一種の寂しさがそこにはあります。
 
 おそらく過渡期にあるのが『紅の豚』で、あの豚=ポルコ・ロッソにはもちろん宮崎さん自身が投影されているんです。それも、清濁併せ呑む存在としてね。この映画には光のキャラクターとしてフィオが登場し、そしてポルコに惹かれますが、結局ポルコが選ぶのはジーナです。一瞬、うまく行くやに見える瞬間もありますが、フィオの存在は彼には眩しすぎるんですな。
 
 『千と千尋』以降の作品でどう描かれてきたかはまた別に考えなきゃいかんでしょうが…この問題が再び現れるのが、最新作『風立ちぬ』(2013)においてでした。あの映画において、二郎と菜穂子はともにかなり自己中心的な人物として描かれています。
 
 あれ…誰か(岡田斗司夫さん?)も指摘してましたが、二郎は最初、女中さんの方に目がいってます。でも、のちには「帽子を受け止めてくれた時=はじめて会った時から(菜穂子を)愛していました」みたいなことを言ってのける。それは彼女を手に入れたいからで、自己中なんです。でも、菜穂子もそれは分かっていて、そこは吞み込む。彼女もまた彼を手に入れたいからで、やっぱり自己中なんです。
 
 菜穂子の前でもタバコを吸う二郎。勝手にやってきて、勝手に帰ってしまう菜穂子。でも、そんな自己中な二人でも…いや、そんな二人だからこそ、あの二人はうまく行きます。
 
 なんの衒いもなく光と光が(出会った時から100%好き同士で)結ばれる初期の構図から、ある意味では日陰者同士が結ばれる後期の構図への変化…その決定的な瞬間が、冒頭に述べた漫画版のナウシカが「清濁を併せ呑む」と判断した瞬間、そして自らの手を汚すことで清らかなる未来を葬り去ったあの瞬間だったのではないでしょうか。
 
 あの瞬間は、宮崎さんが自らの内に住まうレプカ/ムスカを肯定し、彼らとともに生きるという判断を表明した瞬間でもあったのでしょう。