ツインテールの日(アイドルらしさについての云々) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 ツインテールの日だそうですな…と、アイドルみたいなことを言ってみたりして。そこで思い出したのが、この前まで書いていた論文でカットしちゃった部分。まさにツインテールのことについて書いていたんですな。なんの論文だって話ですが(^_^;)

 この部分をカットしちゃったことでくますみぺの出番がなくな…ちょうど良いので、ここで公開しちゃいます。カットした部分なので、序・本・結みたいなきちんとした構造はないですが、良かったらどうぞ ^^) _旦~~



「2つのアイドルらしさ」

 文化社会学者の香月孝史によれば、ステレオタイプな「アイドルらしさ」のイメージが社会に強固に浸透しているという。BiSやももいろクローバーZ、でんぱ組.incなどのアイドルグループにおいて、他のアイドルとは一線を画した「アイドルらしくなさ」が語られる時、そこにはある「アイドルらしさ」が想定されている。主体性を欠いたかわいい女の子像が「アイドルらしさ」の典型として認識されやすいのだ。ただし、今日におけるアイドルでは、そうした「アイドルらしさ」はまた、自覚的に演じられるものでもあると香月は言う*1。
(*1.香月孝史『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』青弓社、2014年)

 ここで私が問いたいことは、果たして「アイドルらしさ」とは、そうしたステレオタイプな「アイドルらしさ」だけだろうか、ということだ。具体例として、ツインテールという髪型に注目してみよう。SKE48のメンバーである熊崎晴香は、ある公演において「アイドルらしく、ハーフツインに」したと述べている。ツインテールやその一種であるハーフツインの髪型をアイドルらしいと見なすのは、とくに熊崎に限った話ではない。たとえば2016年に行われたAKB48高橋みなみプロデュース「ザ・アイドル」公演の例がある。タイトルから分かるように、この公演は「アイドル」を意識したものであったが、出演者全員がツインテールの髪型にしていたのである。このように、現代のアイドルでは、ツインテールが「アイドルらしさ」の象徴と見なされている。

 しかしながら、ツインテールは常に「アイドルらしさ」の象徴と見なされてきたわけではない。試みに、2002年にインターネット掲示板2ちゃんねるに建てられたスレッド「■聖子■髪型が可愛かったアイドル■カット■」を見てみよう。ここで「ツインテール」という文字列を検索にかけても、ひとつも引っかからない。スレッドタイトルにもあるように、いわゆる「聖子ちゃんカット」やショートカットなどがアイドルらしい髪型と見なされていたのである。

 なぜツインテールが「アイドルらしさ」の象徴と見なされるようになったのだろうか。ここには、ある歴史的経緯が反映している。日本ツインテール協会によれば、ツインテールに「新たな美的価値を発見した」のは、日本の漫画やアニメなどである。80年代、ツインテールは「イノセントな少女性」のシンボルとしてそれらにおいて登場の場を増やしていった。さらに、1992年の大ヒット作『美少女戦士セーラームーン』の主人公月野うさぎがツインテールをしていたことで、その存在が強く世に印象付けられることになる。2000年代に入ると、AKB48の渡辺麻友をはじめとしたアイドルによって盛んに取り入れるようになり、「この国のアイドル像にドラスティックな変化をもたらした」のだ。

 つまり、ツインテールとはもともと、2次元文化で流行したものだった。2000年代に入りアイドルが盛んに取り入れた結果、「アイドルらしさ」の象徴と見なされるようになったのである。今日、これは逆輸入のような形で2次元作品にも取り入れられている。たとえば、『ラブライブ!』において、矢澤にこは、「スーパーアイドル」と名乗るなど、「アイドル」に対するこだわりが強いキャラクタとして描写されているが、その髪型はやはりツインテールである。矢澤のツインテールは、制作者が今日のアイドルにおける「アイドルらしさ」を意識したものとして捉えられるだろう。

 こうしたツインテールの事例を踏まえるならば、たとえステレオタイプな「アイドルらしさ」が社会一般に共有されているとしても、「アイドルらしさ」の表象は、その時代ごとのアイドルによって変容していくものでもある、ということになるだろう。

 その時代ごとに現れる「アイドルらしさ」は単に表象のみに留まる問題だろうか。「アイドルらしさ」はまた、アイドルらしい振る舞いの問題でもあるだろう。こうした振る舞いを考えるために、ここで声優の上坂すみれについて考えてみよう。ロシア趣味や共産主義に対するオマージュなどで話題を呼ぶ上坂はまた一方で、「アイドル」を演じる機会の多い声優でもある。『アイドルマスター・シンデレラガールズ』においてはアナスタシアの声を、またアニメ『鬼灯の冷徹』においては「地獄アイドル」のピーチマキの声を担当している。ただし、ここで考えたいのは、こうしたアニメキャラクタにおける「アイドルらしさ」ではなく、アイドルではない上坂自身の「アイドルらしさ」についてである。

 2014年に行われたコンサート「上坂すみれ決起集会 vol.8 病み・病みヤングパラダイス」において、上坂は、めろ坂みみみという架空のアイドルを演じている。ここで演じられたのは、ステレオタイプなかわいい女の子像としてのアイドルである。コンサートMCでの発言を借りれば、このコンサートは「80年代のレッツゴーヤングのちょっとうがった感じのリバイバル」であり、めろ坂みみみとは「そこに出てくる恐れのある、古典的なアイドルの姿」ということになる。しかしながら、コンサート中のMCや、出演したニコニコ生放送の配信において特徴的であったのが、めろ坂みみみを演じる上坂が、しばしば素に戻ってしまうということだ。演じ続けるのは耐えられないというように、素に戻ってしまうのである。上坂はまた、普段から自らが「かわいい」と呼ばれることを拒絶する。そのため、こうした姿を見た際に我々が受け取る印象は、架空のアイドルめろ坂みみみと素の上坂すみれの間にある距離であろう。この距離によって、上坂自身はステレオタイプな「アイドルらしさ」とはかけ離れた存在であるように思える。

 ところが、こうした振る舞いは現代のアイドルにおいても広く見られる。たとえば、先述の「ザ・アイドル」公演において、この日に限りツインテールで登場した渡辺麻友は、過去のツインテール時代を「黒歴史」と振り返り、「かわいいとか言わないで」と自身がステレオタイプな「アイドルらしさ」を備えた存在だと見なされることを拒絶したのである。めろ坂みみみを演じる上坂の態度は、渡辺のこうした態度と共通している。上坂における「アイドルらしさ」とは、演じられためろ坂みみみのステレオタイプな「アイドルらしさ」と同様に、そのような上坂自身の振る舞いにおいても見出せる。ステレオタイプな「アイドルらしさ」と戯れながら、自身は距離を保つその振る舞いが、アイドルではない上坂の「アイドルらしさ」なのだ。その「アイドルらしさ」は、ステレオタイプな「アイドルらしさ」とは異なるものだろう。

 このように、「アイドルらしさ」にはステレオタイプな「アイドルらしさ」と、ステレオタイプな「アイドルらしさ」を拒絶する渡辺麻友に見られるように、その時代ごとのアイドルが備えている「アイドルらしさ」とがある。ここで両者を区別するために、前者を「Sアイドルらしさ」、後者を「Aアイドルらしさ」と呼ぼう。「Sアイドルらしさ」とは、もとは「Aアイドルらしさ」であったものが社会一般に共有されるようになり、ステレオタイプ化したものである。言い換えれば、必ずしも現代のアイドルにおける実態を反映していないものの、それにも関わらずアイドルらしいと見なされるものである。「主体性を欠いたかわいい女の子像」がこれに当たる。対して「Aアイドルらしさ」とは、その時代のアイドルによって築かれるものだ。アイドルは時代ごとに異なるため、「Aアイドルらしさ」の意味するところもまた流動的である。それは、今日のアイドルにおける「Sアイドルらしくなさ」すらも今日のアイドルにおける「Aアイドルらしさ」として包含してしまうような性質のものだ。