櫻の園2 at 阿佐ヶ谷 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


櫻の園2 at 阿佐ヶ谷

 SKEが名古屋で8周年を迎えた頃、ぼくの目の前にはるみがいた。ってか、めっちゃゴーストバスターされてた。るみに。

 いや、別にるみに会いに行ったわけじゃないんだからね!!!←

 なんだか不思議だよね…現役のころ、ぼくはるみが大好きで、いつだかの総選挙で投票したりもしたけれど、でも別に握手会にも行かなかったし、公演も見に行かなかった。だのに、卒業してからなぜか…

 って、いや別にるみに会いに行ったわけじゃないんだけども!←

 今年の初めごろ、ぼくはなぜだか、このブログで「櫻の園」特集をはじめた。よく分からないけれど「櫻の園」ブームだったんだ。

 で、(1990年版の脚本家)「じんのさんの舞台版も見たいなあ…」とか思っていたら、「またやらないかなあ…」とか思っていたら、「え? またやる? え?? るみ? 出るの?? 」と。思わずポチッとしちゃったよね。

 いや別に…って、しつこいか。

 そう…だからこれは割りと楽しみだった。ガラにもなく、ぼくはちょっとワクワクしていたと言っても良い。不安がないわけじゃな…いや別に不安はなかったな。うん、ぼくはワクワクしていたんだ。授業が終わったら(六本木ヒルズ経由)阿佐ヶ谷へGo!


1.開演
 場所はザムザ阿佐ヶ谷、地下にある木造の劇場。席も長椅子に座布団だし、舞台袖も片方にしかない。舞台はグラウンドレベルにあって、僕らは階段型に組まれた座席から舞台を見下ろす形になる。座席は四段目。

 2面が壁に囲まれ半ばクローズドされた舞台。手前には、舞台と客席を仕切る見えない「第四の壁」。その向こうで演技をする女の子たち(いや、子っていうか…)。鳴り止まぬ空調の音。それはまるで…なんだか水槽みたいだったな。阿佐ヶ谷の地下で、なぜだかぼくは、中谷美紀さんの『水族館の夜』を思い出していた。

 水槽といえば魚?
 魚といえば釣り?
 釣りといえば……いや松方弘樹さんだな。

 はじめて見たるみは、意外と顔丸くなかった。なんだかシュッとしてた。でもやっぱり小っこかった。はじめて見たるみは、(とくに序盤は演出上)意外とこっち(客席)見てくれない。そうして、なんだか妙に存在感があった。

 舞台は前半、演劇部の各々がやりたいことを紹介する形で進んでいく。壁を背にして一人一人紹介するその姿は、なんだか「まな板の上の鯉」とでも形容したいような感じで。でも、そのおかげで一人一人の魅力がわかってくる。

 杉山役の子(未浜杏梨)、雰囲気あるな…。一年生のメガネの子(二宮咲)、コメディセンスあるな…。三年生の子(國領浩子)、キレイだな…。とか色々と目移りしているうちに…

 いや紙!! ってかペーパー!! ってかバスターズ!! とか何のこっちゃか分からない人は劇場で「体感」してくら、はい。

 そんなこんなで、お魚たちは水槽をぶち破った。これ、「櫻の園」どころかむしろ『ファインディング・ドリー』だったのだ。『シン・ゴジラ』も真っ青です、ってな感じで、1幕は終了。小休止に入る。ここまでは、割りと良い感じかな。


2.(批判ありなので、読みたくない方はスルー)
 二幕は…「あ、そこ繋ぐのね」と。ふむ…この二幕の方が演劇っぽいのだけれど、正直なんだかイマイチだった。いや…悪いこと言いたくないんだけどね…舞台の場合、観客全体の母数が少ないから批判しづらいし…でもやっぱりそう思ってしまったことは事実で。

 まず、セリフがなんだか理屈っぽいのよ。エチュードで作っている(インタビュー参照)わりには、なんだか妙に脚本家の影を感じるセリフまわしで。

 吉田秋生さんの原作って、やっぱり言葉が良いと思うのね。なんだか微妙にリアルで、全部を言い切らない感じで。理知に裏付けられながらも、感情的に繊細な言葉で。だからこそ、作品全体を取り巻く「あの」なんとも言えない、淡~い、そして微妙~にチクっとした感覚が生まれる。だから重要なのは、言い切らないその余白? 間? そんなもので(それは1990版にも…男目線になっているところはあれど…あったと思う)

 このじんの版「櫻の園2」は、なんだかわりと…「あ…そこ言い切っちゃうんだ」とか、「あ…その文脈で言ったらもう明らかにそういうことですよね」みたいな分かりやすい感じになっていて、隙間がない。だから逆に、あの「櫻の園」の「あの」感じってのが、どこかへポーンと飛んでしまっている。ストーンと分かり易くなっている反面、微妙~な繊細~なところが抜け落ちてしまっている。

 物事がすっきり分かりやすく見え過ぎてしまって、「ここではあなたのお国より、人生がもうちょっと複雑なの」なんて 『紅の豚』のジーナじゃないけれど、そんなことを言いたくなってしまった(この25年で日本はアメリカになったのだ)

 その分かり易さはまた、対比構造にも表れていて。たとえば、原作や1990版の中野さんとお姉さんという対比は「少女から大人へと移り変わりつつある子」と「すでにそこを脱してしまった大人の女性」の対比なわけだけれど、そのお姉さんをお婆さんにしてしまったら、なんか意味変わってしまわないか? と言うか、あのお姉さんってそれ自体でひとつの世界(彼女たちがいまだ見ぬ…けれど少し垣間見ている…世界)を表しているような重要な存在だと思うのだけれど。

 「原典」を意識し過ぎないで新たに2016版を作るって意図は分かるし、「別物」だってのも分かるんだけどさ…。な~んか、換骨奪胎というか、そんな感じがしてしまって。

 あの名作1990版を撮った中原監督は、その後、オリジナル脚本の2008版という愚にもつかない作品を撮っているけれど、1990版の脚本家だったじんのさんもまた…って、まあもちろん2008版よりはずっと良いんだけれどね。(チェーホフ/吉田秋生のように)0から1のものを生み出すのと、1のものを更に膨らませられるってのは、別の資質なのかね?(それは前者後者の優劣って話じゃなくて)

 あとは演出ね…。二幕ラストのアレ、なんかキャラメルボックスっぽい…。いや、別にそれは構わないんだけども(劇中でも実際に名前を挙げてたくらいだし)

 じんのさん自身、百も分かっていることだと思うけれど、アレ、物語がクライマックスに向かってグワーッと盛り上がっていって、それでテンションも最高潮になって、それでアレがバーンと入ると効果的なんだと思うのね。今回みたいな感じで入ってしまうと、「ン?なんかはじまったぞ…」と、ちょっとこっちに余裕があるから、一瞬構えてしまう。

 今回のアレは使っている曲が『サウンド・オブ・サイレンス』だし、こう、静かに入って…というのも分かるのだけれど、それにしても二幕は静かなシーンが続きすぎたかなと。

 たとえばチェーホフ版の『櫻の園』では、ロパーヒンが競売で競り落としたことを発表するその瞬間まで「から騒ぎ」が続いて、そこで幕が変わってスッと静かになる。舞台からひとり、ひとりと去っていき、最後にフィールスが取り残される…。その寂寥感ね。あれはやっぱり、その前の「から騒ぎ」が効果的なんだ(ヨーロッパ企画の上田さんも似たような技術をよく使う)

 今回の場合、「ゴーストバスターズ」のあとに一度幕が降りちゃってるから、そこでもう「から騒ぎ」感覚はリセットされちゃってて、ラストには(ほとんど)響いていない。で、二幕は二人芝居が多いから、なんだか妙に静かだし、なんだか妙に単調な感じがする。あそこで物語のテンポが死んでしまっているんだ(その単調さを感じる理由には「余白」がないことも影響しているだろう)。

 だから、2人→2人→3人みたいに2,3人で出入りしてシーンを変えるんじゃなくて、(実際一度やっていたように)いくつかの2人芝居を照明を切り替えながら同時に流していくくらいでちょうど良いんだと思う。それで一回どこかでみんなを集めてテンポをグッと上げて、それでスッと落としてアレに入ると( ..)φ

 アレを活かしたいんだったら、そういう感じかなあと。ただ、吉田版『櫻の園』って、原作はそもそもオムニバス形式だし、本来そういう話じゃないのもたしかで、だからこそ落とし方が難しいんだろうけど(逆に、原作のあの感じを出したいなら、やっぱり余白の部分を大切にしないと)

 あ~…それから←まだあった

 (音楽のセンスが全体的に古い…ってのはまあいいや)なんかね~…見下ろす形になるってこともあって、やっぱ水槽感あるのよ。見えないアクリル板がそこにあるような感じで。結局、それを破ったのペーパーだったしね!(≧∀≦)ノ

 これもキャラメルボックスとの比較になるけれど、あの人たちの舞台って、こう…人間存在そのものの圧というかな、それをすごく感じる。発声する/ダンスをする=空気を震わせるっていう、その震えた空気の振動が圧になってこっちにビシビシと伝わってくる。その感じ。それは物理的にというよりも、感覚の問題なんだけれどね。それくらいダイレクトに圧を感じる。で、その圧を与える人間存在の神聖さというかな…そんなのを感じたりして。

 今回の女の子たちにそれを期待するのは無理か…いや、そんなことはない筈で。ひとつ単純な解決策がある筈で。それはシンプルに彼女たちにフィジカル的に負荷をかけるということ。たとえば、舞台上をずっと走らせるとか、そういうこと。そうすると、息切れしてしまうから、もう否応なく身体性が前面に現れてくる。そのむき出しの身体性が、人間存在の神聖さを感じさせる。48とか地下アイドルのステージの魅力って、要はそういうことだと思うんだよね、「可愛い子には旅をさせよ」…ではなく「汗をかかせよ」と。

 まあ、こんなのは思いっきり素人意見だけれど、こういう「対案」を書いておかないと、批判だけでは(なにも背負ってないから)フェアじゃない気がするんだ。


3.結局…
 と…批判が長くなり過ぎたけれど、それは実際の舞台の出来からすると少しアンバランスで。映画の採点に直せば3.5くらいの出来で(一幕を中心に)良いところもたくさんあったのよ。それはつまり、「その場に」「その子たちが」「居る」って、とても当たり前のことなんだけれどね。その当たり前のことを、とても素直に表に出すように調理しているから、その点は良かったなって思う。

 結局、終演後の握手会には参加しなかったんだけれど(するもんか!)、なんかそういうのも良いな(good)って思う。なんだろうな…「商法」とかって批判されそうだけど、一方では演技をしたい子がいて(るみは「タレント業したい」とか言ってたりするからややこしいんだけど)、また一方ではお客さんを呼びたい劇団があって、それで利害が一致するなら、全然ありだと思うんだ。『櫻の園』は、かつて優子が出てた(2008版)くらいで、アイドルとも親和性高いしね。

 なんか、アイドル/元アイドルを使って、しかもその利益だけはちゃっかり受けておきながら、アイドルという職業を下に見るような人ってたまにいるけれど(誰とは言わないけれど)、じんのさんって別にそういう感じでもなさそうだし、実際、演出も変に下卑たものになってなくて、その点は好感を覚えたな。うん。

 るみは原作の志水さんとは明らかにキャラが違うけれど、でも別になんかそれはそれで成立していたし、じんのさんの方法論としては間違ってないんだと思う。色々と言ったけれど、ぼくは結局、(もともと「櫻の園」ってコンテンツが全体好きってこともあるけれど)この舞台好きだった。

 最後、整列して幕が降りる前にチラッとニコッとしたるみの笑顔が印象的だった。ドルヲタであることは変わらんけれど、でも応援してんのよ。普段言わんけれどね。こうやって見たい作品に出てくれれば嬉しいしさ。「応援してんなら、もっと褒めろよ」って話だけれど…うん、まあ…ね。そうなのよね。

 ただまあ…別にるみに会いに行ったわけじゃないんだけれどね!←

(『櫻の園2』公式HP)


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アイドル×演劇(「アイ劇」ノスヽメ)