AKB48とは何だったのか。 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


AKB48とは何だったのか。

 近頃、AKB関連の過去のコンテンツを見返している。今見ると、その当時との距離を感じる。あの頃は遠くなりにけり…。


『AKB49』
 初期のストーリーからは、「そう言えば、僕らは、AKBってこういうものだと思っていたよな」という姿を垣間見ることができる。そこに描かれるのは、あまりにもストイックな「神話」の住人たち。

 しかしながら、現実の48はやがて、「神話」とは異なる様相を見せていく。相次ぐスキャンダル。弛みきった規律。仲間同士の傷の舐め合い。

 それを追うように、『AKB49』もまた、48とはまるで無関係のような大時代的なストーリー展開を見せるようになる。『ガラスの仮面』かよ…ってなね。序盤では「主題」だった48が、中盤以降になると、ただの「景色」へと変わっていく。

 それは、この漫画が、現実の48事象にリアルタイムでついていけなくなったということ以上に、「神話」を説得力をもって維持することが不可能になったのだということを伺わせた。いま同じストーリーをやろうとしたら、ギャグにしかならない。


『DOCUMENTARY of AKB48』
 『AKB49』が下敷きにしたような「神話」の成立に貢献したのが、「DOCUMENTARY」シリーズだ。彼女たちがあんな笑顔を見せている「裏」には、こんな壮絶なストーリーがあったのか…という分かりやすい物語を提示する。

 「DOCUMENTARY」の功罪のひとつは、「裏」を描くことによって、「AKBはすべてをさらけ出している」=ガチという「神話」を与えたことだ。でも、そんなわけはないんで。「裏」にも、見せられる裏と、見せられない裏があるってだけの話だったんだ。

 もちろん、あれらが嘘だったとは思わない。少なくとも、その瞬間、その涙は、その言葉は、その努力は、彼女たちにとっての真実だったろう。ただ、僕らが見誤ったのは、その瞬間が彼女たちの全てを表していると考えてしまったことだ。

 それが「見せられる裏」だってことはたぶん、僕たちも気付いていた。ただ、語られるその物語が面白かったからこそ、僕らはそれに乗っかった。ところが「神話」が破たんしたAKBは、もはやそのフリすらもしなくなった。相次ぐスルー、蓋をされる臭いもの。


 話を続けるのは、話を始めることよりもよほど難しい。「昔々あるところに…」って出だしがいかに古臭くとも、その時点で帰ってしまうお客さんはそうはない。でも、話の途中で、これまで語られてきたことと矛盾したことが語られ始めたら、それに乗っかってきた僕らは「おいおい…」って思う。

 僕は、あの頃のAKBを見ながら「夏休みの放課後」なんていう矛盾した言葉を連想していた。それはあったようななかったような夢の時間で。夢から覚めてしまった僕らは、これからいったい、どこへ行けば良いのだろう。