「シン・ゴジラ徒然4(まごころを、君に)」
(注:ネタバレします)
1.
『シン・ゴジラ』は色んな要素を引き込んでおり、しかも謎を謎のまま残す=すべてに解答を与えない、いわば「開かれた」作りになっています。そのため、見た人はそこに多様な解釈を施すことができます。ネット上には様々な解釈が渦巻き、もはや解釈自体が二次創作のような様相を呈しています。僕がこれから書くものも、そのようなもののひとつです。
『シン・ゴジラ』の主題をもっとも分かりやすく解題するならば、それは人類の手に負えないもの=ゴジラにどう対処するか、というものになります。人類は、知恵と勇気で何とか乗り切るものの、それで万事OKとはならず、凍結されたゴジラと付き合いながら歩んでいく未来が示唆されます。これが311の比喩だというのは言うまでもありません。
2.
ただし、これは人類側に視点を置いた時の話。ゴジラ側に視点を置くならば、また別の光景が見えてきます。なんとなれば、シン・ゴジラにはおそらく人間の遺伝子が取り込まれており、単なる災害ではなく、それ自体に「心」があるように思えるからです。
ジャミラにビオランテにウルトラマン、廃棄物13号…。人の遺伝子や細胞や魂、もしくは人自身が怪獣や巨人に取り込まれ、あるいは融合した作品というのはあって。庵野さんの『エヴァ』もまた、それらの系譜に連なるものです。
なぜ、庵野さんが数ある特撮作品の中でもウルトラマンに惹かれるのか、という理由の一端、それは、主人公がウルトラマンという他者と融合して「一心同体」の存在になっている点にあると僕は思っています。この「他者」、「融合」というのがキーワードになります。
『エヴァ』の主題は「他者」です。(エヴァ自体が人とアダム/リリスの融合体なわけですが)最終的にみんな融合して一つになってしまえば、もうお互い傷つけあうこともない。人類を(ある意味で)滅亡させる「サードインパクト」は、また同時に、あらゆる人が一つに融合することを意味していました。
庵野作品における「破壊」とは単なる破壊に留まらず、人間存在が根源的に持つ寂しさとか痛みとか、そうしたものの現れに他なりません。すべてを融かしてしまうことによって、みんな一つになる。その意味で、庵野さんにとっての滅亡/融合というのはSEX(子宮へと帰ること)と≒で結び得るものです。
(実際、「まごころを、君に」はSEXのメタファーで満ちています)
でも、本当の意味で融合して一つになってしまうということは、誰も(君も僕も)いなくなってしまうということです。旧版のシンジくんは結局、「他者」の存在を望み、そうしてアスカと二人であのラストシーンを迎えることになります。
ただ、他者の存在というのはやっぱり耐え難いものであって…という、そのジレンマが『エヴァ』の根底に横たわっています。根本的に矛盾を抱えているんです。
3.
さて、『シン・ゴジラ』です。当初、魚のような形態だったゴジラは、その後、陸に上がり、さらに二足歩行へと「進化」を遂げていきます。これが人間の辿ってきた進化の過程と重なっているわけですが、最終的に人間形態になるかどうかは、意見の分かれるところでしょう(最後のしっぽのあれをどう読むか)
そして、この進化の過程はまた、ゴジラに「自我」が芽生えていく過程として読めます。なので、とりわけ第一次上陸時においては、ゴジラにはまだ何か明確な意図のようなものはないと僕は考えます。
たしかに、マキ教授の意図ははっきりしていると思います。劇中でも「日本を恨んでいた」と明言されていますし、クルーザーに残されていた宮沢賢治の「春と修羅」からもその意図を読み解くことは出来るでしょう。でも、あの時点のゴジラに「東京」とか「日本」という、高度な知性判断ができるようには思えないのです。
それでも東京に向かって進む。第二次上陸時では、明らかに東京の都心部を目指しています。あれは何でしょうね。とりあえずここでは、「刷り込み」のようなものか、あるいはセミの幼虫が(誰に教わってもいないのに)地面に深く潜っていくようなものだと考えておくことにしましょうか。
庵野さんが「本作のゴジラは目だけ下を向いている。人間を見ているから。そこが今回登場するゴジラの唯一のコミュニケーションだったのです」と言うように、今回のゴジラはほとんど人間(活動)に対して反応を示しません。
つまり、ゴジラは「他者」の存在を意識していません。「見る」というのは、単なる観察行為であって、自分自身と関わるものとしての「他者」は立ち現れていないのです。
それがはっきり現れるのが、米軍のB-2戦略爆撃機の爆撃によって、ゴジラが傷付くシーンです。あの時点で、ゴジラにはっきりとした自我が芽生えます。自らを傷付ける存在=「他者」の存在に気付くのです。他者がいることではじめて、自己に対する認識=自我が生まれます。
これに引き続くシーンが、この映画で…あるいは特撮史上で…もっとも美しいシーンです。血液循環による冷却機能を一時的に維持できなくなったゴジラの背びれは、チェレンコフ放射によって青白く光ります。そして放射火炎を吐いて(排気して)地上を燃やし尽くし、さらには巨神兵よろしくB-2と周辺の都市を(政府首脳の搭乗するヘリもろともに)熱線で薙ぎ払うのです。
この時にかかる曲が、「Who will know」という曲です。その歌詞がゴジラ(あるいはマキ教授)の「心」を表しているかも知れません(訳は試訳です)
この世界で死んだら 誰が私を知るだろう誰にも知られず 忘れられ 想いは跡形もない(だが続けるのだ これより悪いことは何もない)誰にも知られず 忘れられ 想いは跡形もない(あらゆる恐れ 涙が語る 心に穴が開いている)私は空虚を身に纏い(この息が唇を震わす限り)望みさえもない(微かな希望があるだろう)下り坂が(一条の光さえあれば)私の見るすべて(私を殺す闇を閉ざすために)
切ない歌詞なんですよね。見てわかるように、輪唱(カッコ内の部分)によって相矛盾することが歌われています。この矛盾ね。この歌詞をどう読むか、というのはなかなか難しい問題です。ともあれ、痛みと恐れ、理解して欲しいという気持ち、絶望(そして微かな希望)は見て取ることができるでしょう。
あの放射火炎のシーンにおいて、僕が感じ取るものも「痛み」、ゴジラの痛みです。それは、はじめて出会った「他者」が自らを激しく傷付けるものであったという、その恐れと痛みです(あるいは、その感情は、マキ教授の絶望と重なっているのかもしれません。この歌詞自体は、ゴジラ研究をしている時のマキ教授の心境を表していると考えたほうが通りは良さそうです)
庵野作品における「破壊」が単なる破壊にとどまらずに、「融合」を目指すものだというのは先述した通りですが、あの圧倒的な破壊のシーンにも、同じ精神を感じ取ることができます。あれは「みんな死んじゃえ!」というシーンであるとともに、「ぜんぶ融けちゃえ」というシーンでもあるでしょう。
でも、ゴジラには活動限界があるので、その「想い」は果たされず、「心」を閉ざすことになります。「フェーズドアレイレーダーがある」らしく、背びれからの熱線で空から近づくものをみな撃ち落とすゴジラ。あれ、もう明らかに『エヴァ』のA.T.フィールドですよね。A.T.フィールドってのは、人誰しもが持つ心のバリアがいわば実体化したものです。
だから何だろうな…。お互い傷付けあうことでしかコミュニケーションが取れない、その悲劇性というかな、(この見方ですべてを説明できるとは思わないですが)そういう側面が『シン・ゴジラ』にはあると思うのです。