シンゴジラ徒然1(顔と感情) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


シンゴジラ徒然1
(注:ある程度ネタばれします)

1.
 シンゴジラ2度目の鑑賞に行ってきました。今回思ったのは、初見での印象よりゴジラのアップ映像がじつは割りと多かったということ。ただ、やっぱり印象的なのは引きの画で、これについてはのちに詳しく書きます。

 アップに関して言えば、むしろ人の顔のアップがもの凄く多いです

 これはもう、明らかに意図的で。ひとつには、おそらく情報量の問題があるでしょう。アニメの場合、その特性上、顔はどうしても記号的になってしまいます。つまり、ある程度分類出来る程度には情報量が少ないわけです。一方、実写はそれとはまるで違います。

 人は、顔を覚えるのに脳内にある「顔細胞」という特別の細胞を用いているという話があります。顔ってそれだけ読み取れる情報量が多いんですよね。さらに、クロースアップの画面では、シワだとか、肌の肌理だとか、記号化し得ないものが画面に現れています。

 また、この映画には膨大な数のキャストが出演しています。序盤の会議シーンでは、相当な数の「顔」が1つの場面に登場します。また、割と名前が知られていても、1シーンしか登場しないような「顔」も結構います。つまり、それだけどんどん「読み」を強いられます。

 カットの切り替えも尋常じゃない早さですし、その上、役職名だの部隊名だのが次から次へと字幕で出てくるので、脳の処理が追いつかなくなっていきます。とかく、会話シーンは間延びしがちですが、ここにはそういう印象はまったくありません。画面の向こう側のゴジラ対策も忙しければ、画面のこちら側も忙しい。飽きさせないんです。

2.
 あとはやっぱり、ゴジラとの対比ですよね。ゴジラの造形にも色々なパターンがあって、人類の味方として描かれる70年代ゴジラはどこか愛らしい目をしていますし、90年代ゴジラはやや哀愁を帯びた目をしています。

 「シン・ゴジラ」の目は、それとは対照的に、まるで感情の感じられない目です。第二形態では魚のような目ですし、それ以降になると、もはや目と呼んでいいのかどうかも分からない、単なる感覚器官に過ぎません。人間との交流なんて想像もつかないような、理解を寄せ付けない超越的な存在として描かれています。

 当然、目の表情なんてあり得ませんし、顔の演技もないわけです。それに対する人間は、先ほども書いたように、むしろ顔の演技が中心になっている。感情と意志を持つ人間と、ゴジラの対比が効いているわけですね。

 ゴジラには、顔の演技がない代わり、モーションキャプチャーによって、野村萬斎さんの「身体演技」が取り込まれています。その演技がまた…引きの画が印象的なのは、着ぐるみ特撮の記憶もさることながら、この野村萬斎さんの「身体演技」もその理由の1つでしょう(それを見せるためのカメラワーク含めて)

 第二形態ではとくに、なんだかオオサンショウウオのようなヌルーッとした動きで。本能的というか、脊髄的というか…生物的というか…本当にただ図体に任せて進んでいくだけの、知性とか主体的な意志がまるで感じられない動きなんですよね。だから「なんだコイツは…」という感じがするわけですし…

3.
 だからこそ、あの「夜」の覚醒シーンでの爆発的な力が生まれています。

 あの覚醒シーン。非常に破壊的なシーンなわけですが、はじめてゴジラの明確な意志が表に現れるので、なんというかな…進化の過程というか、はじめて「心」を持った瞬間のように見えて、ある種の荘厳ささえ感じられてしまうのです。

 一方、人間側から見ると、それまでの不気味さとか、理解不能な感じとか、そうしたものがあの瞬間に一気に吹っ飛ばされます。はじめてゴジラが目の前の存在として現れる。それまで、物語の中心を担う官邸はゴジラ対策をしているものの、実際にはモニターの向こうの出来事なわけですよね。

 ところが、あの瞬間、彼らは、はじめてゴジラと実際に「接触」する。そして、その瞬間はまさに、理解不能な存在=完全生物=神であるゴジラが、はじめて人間の行為に明確に反応し、人間的/動物的な感情を放出させた瞬間でもあるわけで。あのシーンは、2つの意味(物理的/感情的)で、「ファーストコンタクト」のシーンになっています。

 あのシーンは、画的な力も物凄いですが、そうした色々なものがあの瞬間に収斂されていて、だからこそ鳥肌ものなんですよね。あのシーンはちょっと、とんでもない…と、思います。あのシーンを見るためにまた見に行っても良いくらい(* ̄艸 ̄)