職業アイドルはどうあるべきか(聖と俗) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


再掲(以前の記事が長すぎたので一部を抽出)

職業アイドルはどうあるべきか(聖と俗)

 これから語ることは、「アイドルとはなにか」という本質論よりはむしろ「職業アイドルはどうあるべきか」という理想論に近いものになります。

 職業アイドルであっても、単に個々の価値観を反映したものでなく、文化の深層にまで突き刺さる部分があった方が遥かに面白いと僕は感じますし、キリスト教や仏教がこれだけ繁栄したのも、とどのつまりはそれだけ多くの人に突き刺さる部分があったからでしょう。

 かつてのAKBにもそういう部分はあったと思います。すでに目的を失って久しい現代日本。「大きな物語」はとっくの昔に失効し、それに変わる擬似的な物語を騙ったオウムは、多くの若者と多くの犠牲者を巻き込んで自滅しました。結局、若者たちが自らの物語を託せるのは、エヴァの後継者としてのアニメだけになってしまったのです。

 AKBが登場したのは、まさにそういう時代でした。「ガチ」だの「恋愛禁止」だの、前時代的な価値観を備えたそれはまた、「センターを目指す」という分かりやすい物語によって駆動されていました。

 でも結局、それは破綻をきたしました。単純に言って、「センターを目指す」という定員の決まった物語である限り、「努力は必ず報われる」わけじゃないからです(それに対し、多くの宗教では「成仏」とか「救済」とか、定員の決まらないものによって、「努力は必ず報われる」を担保しています)。もはやメンバーでさえその物語には乗っかりません。メンバーが乗っからないものに、どうして僕らが乗ることが出来るでしょう?

 それに代わるものとして提示されるのが、「個性」です。もちろん、もとより「個性」はAKBにおいて重要な要素でした。「多くの子がいるんだから、誰か一人は好みの子を見つけられるでしょ?」というAKBの構造において、「個性」は大きな意味をもっていたのです。

 したがって、より正確には、かつて「大きな物語」と「個性」という両輪で動いていたものが、片方が破綻したことで、「個性」オンリーになったということになります。「様々な個性をもった子が同じ目標に向かって走る」というところが物語の妙味だったのに、単に「様々な個性をもった子が居る」だけになってしまったのです。

 しかし、それぞれの「個性」だけがもっとも大事なものだったら、そもそもグループである必要なんてないわけですし、もっと言えばアイドルである必要さえどこにもないわけです。自分で好き勝手にやりゃあ良い。届く人には届くでしょうし、届かない人には届かないでしょう。それだけの話です。僕はそれには興味がありません。

 じゃあ、職業アイドルはどうあるべきか。やはりここでもidolという語源から考えていくことにしましょう。繰り返しているように、職業アイドルとは本来のアイドルの実質がない「アイドル」(括弧付きのアイドル)であり、結局のところそれをアイドルたらしめているものは、この言葉そのものでしかあり得ないからです。

 もともと、「idol」は宗教的な用語であり、「聖なるもの」と関係を持っています。ここでは、この「聖なるもの」という観点から考えていきます。「アイドル」という言葉以外にアイドルの実質がない職業アイドルにとって、この観点こそが、本来的なアイドルの力を発揮するための鍵を握っているからです。つまり、「起源の力を借りましょう」ということです。

 さて、「聖なるもの」とはいったい、いかなるものでしょうか。これは、その言葉の周辺にあるものを考えることで理解できます。「聖」という言葉の対義語はもちろん、「聖俗」という言葉からも分かるように、「俗」です。

 「俗」とは何でしょうか。俗っぽい人、低俗、俗悪などのように否定的なニュアンスで使われることもありますが、たとえば「俗世間」という言葉もあります。「俗っぽい」という言葉の英語がworldlyであることからも分かるように、「俗」とは、要するにこの世界の事物…身の回りの普通のものごとに対して使われる言葉です。

 また、「俗物」(snob)という言葉が流行を追い求める人を指すように、単に空間的に身の回りという意味だけではなく、時間的にも目先のものという含意もこの言葉には含まれています。流行が移ろい易いように、「俗世間」も刻々と変化していきます。つまり、「今現在この場所」に関わっているのが、「俗」という言葉です。

 「聖」は「俗」の対義語ですから、「聖なるもの」について考えるには、この反対を考えていけば良いわけです。聖なるものは「どこでもない場所」に属しています。この場所ではまた、時間という概念もこの世界とは異なるでしょう。そこは、現在過去未来というあらゆる時間を離れた場所です。

 ゆえに、「俗世間」が移ろい易く刻々と変化していくのに対し、「聖なるもの」は変化を拒絶します。「俗」が「流行」に関わっているとすれば、「聖」は「永遠」と関係を結んでいます。

 したがって、僕が思うアイドルというのも、そのようなものになります。(追記:僕にとってアイドルとは、この腐りきった俗世間と戦ってくれる存在でなければならない、ということ。黒髪はこの俗世間と戦う戦士の目印となる)

 よく、「現代はこういう時代だからアイドルもこうで良い」というタイプの言説を見かけますが、上記の考えに照らすのならばそれは決定的に間違っていることになります。なぜなら、「アイドル」は「聖なるもの」として、むしろ「俗世間」のようには変化しないことにこそ、その本質があるからです。

 だから、「オシャレ」のように、世間一般の女の子が興味あり、しかも流行によって変化していく世俗的なものは、アイドルにとっては不要…どころか、むしろ邪魔なものですらある、ということになります。

 ただし、不変ということは、「努力しない」ということを意味するのではありません。そうではなく、理想のような不変なもののために生きるということです(最初の議論に戻れば、それはまた、理想に対して忠実であれ=mediumであれということでもあります)。

 かつて、小野小町が「花の色は うつりにけりな いたづらに」と詠んだわけですが、若さや美しさ、人の心さえも移り変わっていくのが現世です。そのように移ろいやすい世の中にあって、理想のような不変なもののために生きる。あらゆるものが、どうしようもなく移ろっていってしまうけれど、でも、それと戦う。たとえ最後には負けると分かっているとしてもね。

 それこそが人の心に突き刺さるのではないでしょうか。