2008年の桜
2008年、中原監督は再び『櫻の園』を撮った。これは、それまでの『櫻の園』とは別物だった。もちろん、チェーホフ版と吉田版『櫻の園』はまったく別の話だし、吉田版を原作とした中原版『櫻の園』(1990)も原作を大きく変えてはいる。だが、この2008年版『櫻の園』は、それらとはまったく違う意味で別物だったのだ。
単純に言うと作品としてダメなんだ。『櫻の園』でググると予測変換で「大コケ」と出るように、興行的にも大失敗だった。公開前は最低でも15億円いく! と豪語していたのに蓋を開けてみたら4000万円だったとか、全国150館規模で公開したのに各回平均で1~2人しか入っていなかったとか、びっくらするような話が残っている↓
11月8日から11月30日までの23日間で、延べ観客動員数は30,431人、興行収入は3,775万6,900円、1館当たりの興行収入は約25万円(文化通信より)。エグゼクティブ・プロデューサーで、オスカーの石川薫専務は、「最低でも興行収入15億円」と語っていた。この動員数・興行成績は、単館上映作品ではなく、メジャー作品並みの150館規模で公開された映画としては異例の低さだった。この数字は単純計算で1館あたり各上映に1、2人しか入場していないことになる。(wiki)
それでも、レビューを見ると「内容はそれほど悪くない」という声もチラホラ見かける。そりゃまあ『デビルマン』とか『進撃の巨人』とか『ルパン』とか(邦画史に残る珍作)に比べればそう思えるかも知れないけれどさ…。ただ、この映画には、近年の邦画のダメなところが詰まっている。
1.脚本
まず脚本。いやもう…この脚本には言いたいことが山ほどある。ストーリー的には前回の十数年後という設定に(たぶん)なっているけれど、その中身は中原版(1990)にも吉田版にも、もちろんチェーホフ版にも似ていない。
それまでの「櫻の園」はすべて、失われゆくものへの愛惜が感じられるものだった。チェーホフ版では、没落貴族と新興商人の対比による栄枯盛衰(祇園精舎の鐘の音)が表れているし、吉田版では、それが青春に対するものになっている(ゆえにお姉さんのエピソードが効いてくる)。中原版(1990)は、吉田版を引き継ぎつつ、そこにノスタルジーのようなものを加えていた。それらはもちろん、咲いては散っていく桜と結びついている。
2008年版における、「前向き」な筋立てからは、そうしたものは微塵も感じられない。主人公たちの頑張りによって、禁止されているチェーホフ『櫻の園』の上演に漕ぎ着けるという(分かりやすい)筋立ては、むしろ『スウィングガールズ』とか『書道ガールズ』といったような、2000年代のいわゆる「青春ガールズムービー」に似ている。これでは「桜」であることの必然性がまるでない。
もうひとつ。吉田版は、オムニバス形式によってそれぞれの登場人物を描いていき、そうすることで「櫻の園」=学園が立ち上がってくるようになっていた。中原版(1990)はそれを映画に置き換え、同じ時間軸の中で複数の線が走るようにしていた。複線的にすることで「櫻の園」が立ち上がる。花はそれぞれ咲くことを欲する。中心がないということこそ、ここでは重要だった。
それに対して、2008年版は単線的なストーリーだ。すべては主人公の物語へと収斂していく。これでは「櫻の園」じゃない。ただの「桜の木」だ(しかも、先に言ったように桜ですらない…)。
対象をなにも理解せずに、ただパターンに当てはめて作る。邦画には良く見られることだけれど、こういうやり方で、彼らはどれだけのコンテンツを無駄にしてきたのだろう…。チェーホフや吉田秋生のような、自らの手で何かを作り出す人と、こうして単にパターンに当てはめるだけの人とでは決定的に違うと、ボクは思う。
2.映像
ただ、この映画で悪いのは脚本だけじゃない。画作りの面でも、魅力がない。色気のないパキッとした映像。ここで言う「色気」は、たとえばフィルム映画から感じられるようなもの…あるいはビデオ映像であっても市川準監督の映像から感じられるような…ある種の「雰囲気」の問題だ。
1990年版『櫻の園』は全体に紗がかかっているような映像で、それが雰囲気を作っていた。もちろん、そういう方向性じゃなくても雰囲気は作ることができる。たとえば、2008年版の撮影としてクレジットされているのは石井浩一氏だけれど、彼が2010年に撮影した『必死剣鳥刺し』の映像は、物のざらざらとした生々しさが感じられる良い映像だった。
でも、2008年版『櫻の園』はそういうものとも違う。柔らかい描写でもなく、陰影もない。(悪い意味で)典型的なTVドラマの映像で、ただの安っぽい画にしか感じられないんだ。これじゃあ映画であることの意味がない。なんでこういう画作りになったのか、機材の問題なのか何なのか、ボクには不思議でたまらない。
「色気」がないというのは、また別の意味でもそうだ。たとえば、古くは『セーラー服と機関銃』の薬師丸ひろ子や、最近だったら『バクマン』の小松菜奈から感じられたようなもの。品がないことを色気と勘違いしている人が居るけれど、むしろこうした色気は気品からこそ生まれる。そして、致命的なことに、この映画からは、1990年版にはあったもの=気品が感じられない。
これはもちろん、第一には演者の責任だ。21世紀版ということを意識したせいか、「現代的」なキャラクター造形(キャスティング+演技指導)がなされていて、そのことによって気品が失われている。(ボクはそもそも美少女クラブ31の頃から福田沙紀という人をあまり買ってないんだ。ボクが大好きだった渋谷飛鳥は…どこへ行った? まあそれはともかく)
もうひとつは、衣装の問題。みな基本的には実際にその年代(高校生)の筈なのに、なぜだかコスプレに見える。この衣装の問題は、小さいようだけれど、実はもっとも致命的なところでもある。なぜなら、そのせいで安っぽい「学園ごっこ」に見えてしまうから。
もちろん、1990年版も、完全にリアリズムでやっていたわけではなかった。ボクは「リアル」にはリアリズムとリアリティの2つがあると思っていて、前者が実際にある何かを基にしている=「引用」の問題だとすれば、後者はそれがあたかも本当にそこにあるように感じられる=「存在感」の問題だ(たとえば、宮崎駿の『千と千尋~』は実際の何かに基づいているわけじゃないけれど、あたかも本当にああいう世界があるように思える)
1990年版『櫻の園』は、リアリズムはないけれど(もちろんファンタジーである『千と千尋』よりは遥かにあるわけだけれど)、リアリティはあった。あんな学校は実際にはどこにもありはしないけれど、本当にああいう世界がどこかにあるかのように思える。そこへ行くと、2008年版は、リアリズムもリアリティもない。ただのウソの世界に見えるんだ。
脚本は対象に対する理解を欠いており、映像は色気/雰囲気もなく、作品世界にはリアリズム/リアリティもない。いったいぜんたい、この映画はなんなのだ。あの「名作」と呼べる1990年版を作った同じ中原監督が、どうしてこういうものを作るのか、なぜこういうことが起きるんだろう。ふむ…。
3.
中原監督の手による吉田版『櫻の園』の解説文は「成る程」と思わせるものだし、彼はまた名作『12人の優しい日本人』を撮った監督でもある。そこでは撮影前に1ヶ月にわたるリハーサルを積み重ねたと言うし、その成果は確実に画面に現れている。あの2作品だけを見る限り、紛れもなく名監督だ。彼の撮る作品をもっともっと見たいと思わせる。
でも、実際には、あの2作品だけが屹立している。 (今回、色々と見てみたけれど)彼のその後の作品は、良くも悪くも、その多くが時代を反映した普通の作品だった。一方で、1990年の桜は色あせない。そのギャップが、多くの人をして「同じ監督が撮ったとは思えない」と言わしめる2008年の結果を生んだようにも思える。
中原監督は、1990年『櫻の園』、1991年『12人の優しい日本人』と、立て続けに演劇的な映画を撮って成功を収めたわけだけれど、それはむしろ、じんのひろあき、三谷幸喜といった脚本家の適性だったのかも知れない。優れた作品を撮る監督であっても、優れた脚本家に巡り会わなければ、うまくいかないということなのか…。
主演女優の所属事務所によるプロモーション映画だからって話もある。たしかに、同じ事務所の女優たちが顔見せのように(やっつけ仕事のように)ゲスト出演していて、なんだかなって気分にさせるのは確かだ。リハーサルに1ヶ月かけた監督と同じ人が撮ったとは、到底思えない。正直、「監督自身やる気ないんじゃないの?」とすら思える。
年始、巷で話題になった某事務所の絡んだ作品も酷い出来になることが多いから、この所属事務所=悪玉説は頷けないこともない。色々と余計な要素が入ってくると映画ってのはダメになるんだ。ただ、撮影の問題とか含め、それだけじゃ説明がつかないこともある…。なんでこういう映画が出来上がるんだろう…。ボクには、それが本当に不思議なんだ。
ふ~む…思わぬ長文になってしまった。悪口を書くときの方が筆が乗るってのは…(-_-;)