『スター・レッド』、あるいは超能力SFについて(その4) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
「 『スター・レッド』、あるいは超能力SFについて(その4)」
 
 前回は、萩尾望都さんのSF作品がおそらく、当時のニューエイジ的な世界観の影響を受けているだろうという話でした。しかし、そこに出てくる超能力自体は、もっと古い起源にさかのぼることが出来るだろう…というのが、今回の話です。
 
1.
 『スター・レッド』を読んでいた時、ボクは、エルグの人物造形になんとなく馴染みがあるような気がしたんですよね。外見的なキャラクターデザインそのものってより、設定とかそういう内面的な部分でね。
 
 ひとつには、前回も書いたように『時をかける少女』(筒井康隆/1967)の深町くんを連想させるんですよ。深町くんは未来から来た時間旅行者で、エルグは異世界からやってきた異星人…という点でやや違うんですが、ともに本来はその世界に所属していない存在であり、ともに超能力者であるという点が共通しています(あるいは、星との関係性の部分もそうかな)。
 
 萩尾さん自身はむしろ小松左京さんの読者だったようなので、『時をかける少女』に実際に影響を受けているかどうかは定かではないのですが、とりわけ序盤から中盤にかけて、エルグは深町くん的なキャラクターに見えるのです。
 
2.
 しかしながら、『スター・レッド』の物語が進むにつれて、ボクの脳裏には、また別のキャラクターが浮かんできました。
 
 ここで少し話題は横に逸れます。萩尾さんは、手塚治虫さんとの対談で、これまで読んできたSF作家として、アシモフとかブラウン、ブラッドベリなんかの名を挙げます。そして、「SFでなにがいちばん好きですかときかれたら、アシモフの『銀河帝国の興亡』を挙げる」…と。
 
 ボクはこの言葉を読んだ瞬間に膝を叩きました。そう、ミュール*なんですよ。エルグはミュールでなくてはならないんです。なんで、ミュールでなくてはならないか…それはボクもそう思ったからだ…という冗談はさておき。
(*『銀河帝国の興亡』に登場するキャラクター)
 
 『銀河帝国の興亡』(あるいは『銀河帝国興亡史』『ファウンデーション・シリーズ』とも呼ばれますが)は、アイザック・アシモフによるSF小説シリーズで、1940年代から書き始められました。邦題からも分かるように、ギボンズの『ローマ帝国興亡史』に影響を受けており、滅びゆく帝国という設定をSF世界に持ち込んでいます。
 
 詳しくはwikiに書いてあったので…↓(余談ですが、各巻のページにはあらすじが割と詳しく書いてあるので、それを読んだだけであらかたの筋は分かっちゃいます(^_^;))
 
数学者ハリ・セルダンは、膨大な集団の行動を予測する心理歴史学を作りあげ発展させることで、銀河帝国が近いうちに崩壊することを予言する。セルダンは、帝国崩壊後に3万年続くはずの暗黒時代を、あらゆる知識を保存することで千年に縮めようとし、知識の集大成となる銀河百科事典 (Encyclopedia Galactica) を編纂するグループ「ファウンデーション」をつくったが、帝国崩壊を公言し平和を乱したという罪で裁判にかけられ、グループは銀河系辺縁部にある資源の乏しい無人惑星ターミナスへ追放されることになった。しかし、この追放劇すらもセルダンの計画に予定されていた事柄であった。
(Wikipediaより)
 
 こうして、「心理歴史学」によって未来を予測し、勢力を拡大していくファウンデーション。しかし、ある時代からその予測がうまく機能しなくなります。そして、その理由こそが、「ミュール」なんです。
 
 ミュールは突然変異によって生まれたミュータントで、超能力が使えます。彼はミュータントなので(=人間ではないので)、心理歴史学ではその行動が予測できないんですな。その力を活かして勢力を拡大していくミュール。さてどうなるファウンデーション…って感じで、あらすじ紹介はとどめて置きますが。
 
 ここで重要なのは、ミュールは異端だ(=人間ではない)ってことですよ。なので、常に孤独で…その過程で人間の女性に恋をしたりもするんですが…敵役として出てくるのに、かなり悲哀を帯びたキャラクターなんですな。
 
 この超能力者=異端=孤独って構図が、エルグのキャラクターにも響いていると思うんです。
 
 もちろん、超能力=異端という問題系は、アメリカでは一般的です。たとえば、『X-men』なんかは明らかにその問題系で描かれていますし、それはまた、マイノリティの問題とも結び付いています。
 
 ただ、エルグの場合に特徴的なのは、彼がひとりだってことですよね。彼は種族の最後のひとりなんです。その部分がまさにミュールだと思うんですよ(ミュールは最後のひとりではなく、最初で最後のひとりなんですが)。
 
 「超能力SFの起源」と検索すると、たとえば1940年に書かれた『スラン』とかの名前がヒットしますし、同じく40年代に書かれたブラッドベリの『火星年代記』にもテレパシーという形で超能力が登場します。
 
 萩尾さんはブラッドベリの短編を漫画化しているので、火星人の超能力設定はそちらに影響を受けているとも考えられますが、ことエルグの超能力に限っては、その起源はミュールだと言って良いと思います。
 
3.
 そして、エルグの人物造形には、これに加えて、さらに手塚的なもの、ブラッドベリ的なものが反映されているかも知れません。
 
 手塚さんの『火の鳥』では、不死というのがひとつのモチーフになっています。火の鳥ってのは、もちろん不死鳥ですから。そして、不死は孤独と結びつきます。「未来編」(1967)の山之辺マサトは不死の生命を得るんですが、地球の生命は核戦争で滅亡しちゃうんですよね。そしてひとり地球に残される…。
 
 ただ、手塚さんの場合、この不死というモチーフは、孤独そのものというよりは、むしろ業とか再生とかと(より強く)結びついているんですよね。輪廻転生的な世界観というか(だからこそ、地球には再び生命が誕生し、山之辺マサトはそれを見守っていくことになる)。
 
 ブラッドベリの短編を萩尾さんが漫画化した『ウは宇宙船のウ』(原作1962/漫画1977)の中で、とりわけ印象的な作品として「霧笛」が挙げられるでしょう。灯台の霧笛を仲間の声と勘違いした恐竜の話なんですが…これがまた切ない話なんですよな~。彼は(エルグ同様に)種族最後の一匹で、何百万年も仲間を待ち続けているという…。
 
 あの話は古典なんですよね。2007年に放映されたアニメ、『電脳コイル』の第13話、「最後の首長竜」の元ネタにも(たぶん)なっています。そこでは、電脳世界に変奏された形で描かれていました(あれの元ネタが萩尾さんの漫画なのか、ブラッドベリの原作なのかはちと分からんですけどね)。
 
 『電脳コイル』における「最後の首長竜」が作品世界を彩る一要素であるのに対して、『スター・レッド』では、この孤独というモチーフがより純化されていくような印象があります。異端の超能力者というミュール的(アシモフ的)な孤独は、手塚的な不死のモチーフ、さらにブラッドベリ的な最後の一匹というモチーフと結び付き、永遠とも言えるような孤独へと転化されています。
 
 そして、その孤独ゆえに、エルグは一種の清浄な存在へと昇華されています。そう…(エルグのキャラクターデザインに反映されている)伝説上のユニコーンのようなね。あれも単にデザイン上カッコいいというだけではなく、ユニコーンという存在そのものの、なんというか清浄さと結びついています(「処女を好むことから、ユニコーンは貞潔を表わすものとされ」-Wikiより)。
 
 性的に未分化なゆえに清浄な存在であるフロルと、孤独ゆえに清浄な存在であるエルグは、こうして重なり合います。それはセックス(いきなり生々しい話ですが)をしないんじゃなく、もともとできない存在…あるいはもっと言うと、本質的に性と切り離された存在なんですよね(性別ってのは2人いないと生じませんから)。
 
 ボクが、萩尾さんをすごいと思うのは、そうして種々のモチーフを引き継ぎつつ、それを純化…あるいは結晶化させることで、それをさらに清浄な存在へと昇華させてしまうことですよ。「異端=孤独」が「清浄」に結びついてしまう。ここにおいて彼らは、憐れむべき存在から、祝福されるべき存在へと変貌を遂げるのです。
 
 この感性ね。
 
(追記。結局、この孤独は解消に向かうわけですが、この清浄さゆえに、この「愛」もまた純粋に精神的な「プラトニック」なものとして謳いあげられることになります)
 
4.
 と…言うわけで、このシリーズは終了です。どうも、長々とお付き合い頂き<(__)>