「『スター・レッド』、あるいは超能力SFについて(その3)」
前回は、萩尾望都さんのSF作品が、その後のアニメ史を占う上で予見的なものだった…という話でした。ただ、それと同時に、それらが時代性を感じさせるものだ…というのも、また一面では確かで。
1.
端的に言うと、それは「世代の捉え方」とか「超能力」という点です。
たとえば、『スター・レッド』では、火星人が超能力者として出てきます。厳しい環境の火星に適応するために、超能力を身につけたという設定ですよね。主人公の星は、火星人だということを隠して暮らしていますが、やはり超能力が使えます。
さらに特徴的なのは、この超能力は世代によってポテンシャルが違うということ。世代が進むごとに能力が上がっていくんですよね。第5世代の星は、火星人の中でも非常に高いポテンシャルを秘めています。
これと似たような構造、どっかで見たことありませんか…?
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ハイ、正解です(笑)
『ガンダム』ですよ。『ガンダム』というのは、地球を出て宇宙で暮らすようになったスペースノイド(宇宙人)たちが、ある種の超能力を持つ=ニュータイプになるという話ですよね。それはさらに、地球に縛られる旧世代のオールドタイプと比較されるという点で、『スター・レッド』の構造と共通しているんです。
『スター・レッド』は1978年に連載開始、『ガンダム』は翌1979年放映なので、まさに同時代作品なんですよね。前回の記事で書いたように、『ガンダム』は萩尾SFの影響を受けているんじゃないかとボクは思っているのですが…(実際の証言がないのでなんとも)。
これ、単に『ガンダム』が萩尾SFの影響を受けているというより、その時代背景に目を向けた方が良いのかも知れません。当時の日本では、これからしばらくして、「新人類」という言葉が流行るようになります。
それは、「従来なかった新しい感性や価値観を持つ若い世代を異人種のようにいう語」(広辞苑)なんですが、こうした時代の空気が『スター・レッド』や『ガンダム』にも反映している気がするんですな。
2.
もうひとつ鍵を握るのは、この時代を席捲した「ニューエイジ」という思想です。「新人類」と似たような言葉ですが、こちらはアメリカ由来です。西洋的な消費社会や科学万能主義と決別しようって思想なんですが、これはさらに、日本においては、五島勉の『ノストラダムスの大予言』(1973)などに代表されるような終末思想と結び付いていきます
ここにおいて、SF作品はひとつのジレンマに陥ることになります。すなわち、自身の基盤を科学に持ちながら、同時にそれを否定しなければならない…というジレンマです。この解決に持ち出されるのが、精神的なもの…とりわけ宗教的な価値観です。こうして、SF作品において、科学的なものと精神/宗教的なものとが融合していきます。
この影響は、80年代の『風の谷のナウシカ』(1982~)や『アキラ』(1982~)にも見られますが、それ以前、70年代の『スター・レッド』や『地球へ…』(1977~)、あるいは『ガンダム』にもすでに現れているでしょう。
そして、そうした作品群に共通して見られるのが、超能力の存在です。なぜ、超能力なのか。色々と考えられるのですが、そのひとつには、もちろん1974年のユリ・ゲラー来日によって巻き起こった「超能力ブーム」ということが挙げられるでしょう。
ただ、そこにはそれがSF作品に取り入れられていく背景というのがあると思います。それは、やっぱりニューエイジ思想ですよ。それは正負両面あるでしょう。
まず、人と人を結びつける共感能力としての超能力は、コミュニティの崩壊によって孤立していく個人や、あるいは物質社会に対する希望のようなものとして現れます。『ナウシカ』とか『ガンダム』の超能力は、どちらかと言うとこちらのタイプでしょう。
そしてまた一方では、負の側面としての超能力、力そのものとして現れる超能力があります。こうした場合、『アキラ』や『スター・レッド』でも明らかなように、超能力というのは、暴走していく科学の比喩になっています。
そして、おそらくここが重要なんですが、精神的な解決を寄せ付けない科学的なものとは違い、超能力ってのは、精神的に解決をすることが出来る…ように描くことができるんですよね。
ニューエイジ発祥の地であるアメリカにおいても、『スター・ウォーズ』(1977)には超能力=フォースが出てきますが、あれなんか典型的ですよね。師匠のもとで瞑想訓練をしてフォースをコントロール出来るようになるという。
ニューエイジ思想はまた、数の原理に反発します。それこそが消費社会や物質社会、あるいは科学を絶対視する考えのもとになっている原理ですからね。
『スター・レッド』で、夢見たちが合議する場面があるじゃないですか。そして、ひとりだけ星の処刑に反対する。数の原理だったら、多数決で多い方が正しい筈なのですが、ここではもちろんそうではありませんよね。後半にも同じような場面がもう一度ありますが、こうした作品ではむしろ少数派の方が正しい意見を持っていることが多いんです。ああいう展開になったら間違いなくそうだと言っても良いくらい(笑)
3.
科学的なものと精神的/宗教的なものが結び付いたこのニューエイジ思想は、世紀末日本において、2つの鬼子を生み出すことになります。
ひとつは『新世紀エヴァンゲリオン』(1995)。『エヴァ』には超能力そのものこそ出てきませんが(A.T.フィールドってのは超能力っぽい設定かも)、精神/宗教世界+科学という構造になっている点で、それは紛れもなくニューエイジ的なものでした。
そして、もうひとつは「オウム真理教」…。オウムってのは、超能力的なものに科学の衣をかぶせ、それをさらに宗教で包んで躍進してきた集団でした。だから、これもまさにニューエイジ的なものの延長線上にありましたし、だからこそ、70年代以降のそうした思想…あるいは作品の洗礼を浴びてきた人々がこぞって靡いてしまった…。
(『ナウシカ』がオウムのバイブルみたいな扱いだったというのは有名な話ですよね)
しかも、ここまで書いてきたように、ニューエイジってのは少数派が正しいって思想ですから、いくら世間から斜めの目で見られても関係ないんですよね。その傾向は、政界進出に失敗して以降、さらに拍車がかかっていきます。
しかしながら、そうして暴走していったオウム真理教の起こした一連の事件(1995年の地下鉄サリン事件など)によって、そして1999年に世界が終わらなかったことによって、ニューエイジ思想は世間的には急激に退潮していきます。超能力SFが退潮していったのも、その影響なんじゃないか…とボクは思っているのですが。
『エヴァ』が生き永らえたのは、超能力それ自体を出さなかったおかげなのかも知れませんし、『ガンダム』は今でも新作を作っていますが、ニュータイプ設定はどこかへ吹っ飛んで行ってしまっていますよね(笑)
(余談ですが、UFOを呼ぶのになぜかテレパシーを使うみたいな描写ってよくあって、たとえば『エイプリルフールズ』なんかにも出ていましたが…あれ普通に考えたら変じゃないですか。なんでUFOがテレパシーで来るんだっていう。あれも科学+精神っていうニューエイジの名残りなんですよね)
4.
そうして退潮していった超能力SFですが、しかしながら、超能力SFそれ自体は1970年代よりも、もっとずっと古い起源をもつものです。
たとえば日本でも小松左京さんの『エスパイ』(1964)や筒井康隆さんの『時をかける少女』(1967)は超能力を主題に扱ったものでしたし、実際、『スター・レッド』のエルグは、どこか『時をかける少女』の深町くんを連想させるところがあります(萩尾さん自身はむしろ小松さんのSFを好んで読んでいたらしいんですけれどね)。
海を渡ればもっと古い。『スター・レッド』は一見、ニューエイジ的なものに見えますし、実際その影響も受けているでしょうが、しかしその根本においては、そのもっとずっと古い起源の超能力にまで遡れるのではないか…という話はまた次回。
つづく