ラブライブとSHIROBAKOと2(ドラマ形式) | 想像上のLand's berry

想像上のLand's berry

言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 非現実的な日常を「日常」として提示するアニメにおいては、現実と非現実の間の葛藤は問題になり得ないでしょう。それが『ラブライブ』と「現実のアイドル」とを切り分ける点なのかも知れません。

1.
 そのことを如実に感じさせたのが、1stシーズンの最終話。メンバーの南ことりちゃんが服飾デザイナーの夢を追いかけるために留学しちゃう、どうなるんだμ's…って話でした。

 そこで、最後は仲間が引き留めるわけです。そう…『ラブライブ!』としてはもちろん「こうあるべき」なんですよね。あそこでことりちゃん居なくなって、μ'sは8人でやっていきましょう…とはならない。

 そういうドラマもあるかも知らんけれど、少なくとも『ラブライブ!』というドラマの形式ではそれはあり得ない。それは2期の11話でも明らかでした。「この9人がμ’sなんだよ」と、そういう風に結論するわけですよね。

 これが、『ラブライブ!』というドラマの形式です。「ユーザー参加型」という要素はあっても、『ラブライブ!』というドラマ形式に乗らないものは、この世界には入ってこない。

 誰かが男作っちゃったり、太ってルックスが崩れたままになっちゃったり*、メンバーが最終的にμ’sより個を優先したり…って、そういうことはここでは起こりえない。これは云わば、完全にコントロールされた世界です。
(*あのダイエット回でもあっさりとダイエット成功しますよね)

 そう考えると、「ドラマ」ってのは、個を犠牲にした上で成り立っているのかなと…って、こう書くと批判的に見えるかも知れませんが、そうじゃなくて…ドラマってものがそもそもそういうものなんだ…という話です。

 「現実」には様々なファクターがあるわけですよ。完全にコントロールすることなんてできない。そりゃあスキャンダルももちろんそうですが…たとえば個人が「別の夢」を持って、それを追いかけようとする時、それを引き留めるってのは…なかなか難しい。

 引き留められないんですよ、実際はさ…。

 実際は現実的なあれこれがあって…要はあのドラマ世界の外にあるものということですが。現実にはそこにも人がいて、それぞれの想いがあって、個々のメンバーにとってはアイドル生活やグループが全てではないんですよね。

2.
 だから、コントロールなんて出来やしない。とりわけ48はそうです。48グループは秋元さんがすべて台本(ドラマ)を書いてそれに従って動いているんだ…という考えの人を見かける時がありますが、そんなのハッキリと不可能なんです。

 何百人という単位で女の子がいて、それを全部コントロールするなんて不可能です。だから、「こんなのドラマとして成立してないじゃん」…と思うことなんていくらでもあります。

 もちろん、局所的にはそうした(ある種『ラブライブ!』的な)ドラマが駆動する場面もあって、それが長く人々の心に残っていく時もあるんですけれどね。

 でもむしろ、48の本質って、そうしたドラマ=筋書きが存在しないところ。コントロールできないがゆえに生じるダイナミズムというか、そういうところなんじゃないかと。

 秋元さん自身は良く「予定調和を壊す」って言いますよね。「壊す」って言い方自体が意図性を感じさせますが、これはむしろ「コントロールしない」ってことでしょう。

 だからと言ってスキャンダル容認みたいのもファンとしては困っちゃうわけで、ある程度はコントロールしてくれよ…とか思うわけですけどね。

 …って、なんか48の話になってきちゃったな…ま、仕方ないかな。

 ホントは「夢と現実」という話もしたかったのですが、長くなってきたので。

つづく