先日放送された『ここがポイント!!池上彰解説塾』を見ました。
ちと気になったところをいくつか…。
1.
前半のテーマは海外からの視点で日本の問題点が分かってくるという話。
この問題設定上やむを得ないのでしょうが、もともとの基準点=ゼロ地点が問われないまま議論が進められていくのが気になりました。
たとえば、男女同権というのに反対の人はまあほとんど居ないでしょうから、それは良しとしましょう。ただ、女性幹部の数が先進国最低だとか、諸外国に比べて男性が家事に携わる時間が少ないとか、それって、そもそもの日本の社会構造(性別役割分業)ですよね。あるいは、いまだに死刑制度に賛成しているとかね。
ここでボクは、それらが良いとか悪いとか、外国のことなど気にする必要はないとか、そういうことを言っているのではありません(国際感覚の大切さは、ボクが再三にわたって強調していることですし)。
そうではなく、それらはそもそも、日本人自体がどうしたいのか、どういう社会を望むのか、それが先に問われなければならない問題だと言いたいのです。
たとえば、日本が快進撃を続けていた1980年代には、「日本型社会」は、非キリスト教国で唯一先進国へと発展した(当時)日本の成功の秘訣だとされていました。その当時、諸外国との社会構造の違いは、むしろ誇るべきものだとさえ考えられていたでしょう。
(その残滓は1993年の『僕らはみんな生きている』などにも現れています)
ですから、本来、「違う」ということそれ自体のみでは、「日本が諸外国のようになるべきだ」という義論にただちに結びつくものではない筈なのです。
90年代のバブル崩壊、その後の失われた10年。少子高齢化による経済の停滞。どうやら「日本型社会」はこのままではやっていけない。じゃあ、どうしたら良いか。ボクらはどういう社会を望むのか。その議論が先にあって、じゃあ諸外国ではどうしているんだ…というのが筋道でしょう。
それも問われないまま、先に諸外国ありきってのは、なにか変です。
2.
なぜ、こんな議論がまかり通るのか。
その理由のひとつはおそらく、日本人が(確固とした倫理体系を備えた)宗教をもたないからではないでしょうか。
多くの諸外国では、どういう社会を望むのか、という根本のところには宗教や哲学が横たわっています。旧共産圏では女性幹部の数が多いなんてのは、その典型的な例でしょう(共産主義ってのは宗教みたいなもんだとボクは思っていますけど)。
あるいは、たとえば『フットルース』。新旧の価値観が衝突するあの作品でさえ、主人公ケヴィン・ベーコンが最後に持ち出すのは「聖書にはこう書いてある」ってことなのです。あれ、日本だったら、絶対に神様/仏様なんて出てこない場面ですよ。
社会の根底を巡る議論が、神学論争と結びついてしまう。それがアメリカをはじめとした宗教的国家のあり方です(合衆国大統領の宣誓式でも、『聖書』に手を置いて「GOD BLESS AMERICA」と宣誓するわけですからね)。
日本の場合はそうではないですよね。「日本型社会」という言葉があるように、日本にも底流として流れている思想や価値観のようなものはあるでしょう。でも、それは『聖書』やマルクス『資本論』のように、はっきりと明文化されているものではありません。
(細かいことを言えば、たとえば『正法眼蔵』はどうなんだとか、色々と出てくるでしょうが、それが国家全体の根っこになっているかというと、それは違うでしょうという話です)
だから、社会が自信を失ってしまった時、あるいは停滞してしまった時、日本の場合はなにか寄って立つものがなくなってしまうのです。『聖書』のようにそこに戻って考えるべきゼロ地点がない。
逆に言えば、(大陸に比べれば安全な)島国日本はそうした確固たるものがなくてもやってこれてしまったわけですし、また、寄って立つものがないからこそ、柔軟に諸外国の制度を取り入れることも出来たわけで、それが近代化への道を切り開いたのも確かなのですが。
でも、またそのことによって、遅れて植民地主義にハマってしまい、ドロ沼に陥ってしまったのも事実なわけで。なんと言うか…単純に語れないんです。
諸外国はそうした日本を、なにか(ナチズムや共産主義のような)確固たる主義(たとえば日本帝国主義)があってやっていたと見たがりますが、そうじゃないですよ。あの昭和初期の時代、そんな明確な思想をもって戦争をしていたのは石原莞爾くらいなもんでしょう(あの人の思想もいわゆる「帝国主義」とは違いますけど)。
むしろ、ただただ流されるままに、場当たり的な対応を重ねてドロ沼に陥っていったのが、あの当時の日本だった…とボクは思います。ボクの理解が正しいのならば、右倣えの日本人が起こした典型的な例ですよあれ。
でも、根っこのところに確固たる倫理体系を持っている国(キリスト教国や共産主義国)にはそれが理解できない。だから、(実際にはありもしない)その根っこにある部分を必死で探そうとするわけですよね。
そしてそれが、「天皇教」であったり、「武士道」であったりするするわけですよ。戦後、GHQによって時代劇が禁止されたなんてのは、まさにその後者の典型的な例でしょう。
いまでも、おそらくその見方はどっか続いていて。日本では自殺者が多いってニュースに対して、「日本人は自殺を尊ぶ」みたいな『葉隠』的な*武士道の考えを、いまさら持ち出してきて説明しようとするわけですよね。
(*あくまで「的な」ね)
でも、それって、スタジオのゲストがそうだったように、現代の日本人の多くにとっては「キョトーン…」なわけですよ。そもそも、その当時ですら武士なんて6パーセントくらいしかいなかったわけで、多くの庶民にとって『葉隠』なんてキョトーンでしょう。
たしかに、『忠臣蔵』が大受けしたように、そういう土壌がゼロとは言いません。でも、それはキリスト教における『聖書』みたいなものとは全然違いますよ。
(それに「天皇教」ったって、その権威とは裏腹に、天皇自身には、ほとんどなんの実権なかったわけで。まあ、そのギャップを利用されたというのは確かなんですが)
そうした根っこのなさ、曖昧さが、逆を言えば日本らしさでもあって。だから日本では、宗教的なものでも何でも換骨奪胎して表面だけ輸入するなんてことが、昔も今も普通に見られます。クリスマスとかハロウィンなんてまさにそうですよね。
この番組がやっていたことも、それと似たようなものじゃないか…とボクは思うわけですよ。根っことなる思想の部分は問わないで、表面だけ輸入しようとする…というね。
3.
それに、この番組で取り上げられていた外国って、中国を除けばキリスト教国ですよね(儒教が強いイメージのある韓国もじつはキリスト教国ですし)。だから、この番組の視点って、じつは、ものすごい偏っていたわけです。
たとえば、多くのイスラム教国では死刑制度はありますし、男女の違いも日本なんて目じゃないってくらいにあるでしょう(何度も言いますが、それが良いとか悪いとか言ってないですよ)。
それは、イスラム教国の根底にあるのが、そうした思想を持つ宗教=イスラム教だからですよね。当たり前の話ですが。
このことを捉えて、イスラム教国は「遅れている」と言ってしまうことも可能なわけです。実際、そう言う人たちはいるでしょう。でも、そうした欧米諸国の思い上がりはロクな結果を生まない…というのは、この10年間で明らかになったことではないでしょうか(少なくともボクはそう思います)。
イラクを叩いたら、より原理主義的なイスラム国ができてしまった…なんてのは、なんの冗談にもなっていません(完全に反欧米主義であることによって、結果的にイスラム国は欧米諸国の一部の若者にさえ、一定の訴求力を持つようになってしまっているのです)。
あるいは、SNSなどによって欧米的なものの見方を手に入れたアラブの若者たちが(欧米諸国に煽られて)起こした「アラブの春」が、結果的にいったいどれだけの犠牲を生んだか(何度も言いますが、ボクはそれを良いとか悪いとか言いたいわけじゃないですよ。そうじゃなく、物事には色んな側面があると言いたいのです)。
この番組には、そうした視点が欠けていました。「複数の新聞を読み比べて、複数の視点を持つのが大切だ」と言いながら、この番組自体の作りはそうはなっていなかったのです。外国と言いながら、扱うのは欧米諸国や東アジア諸国のみ。イスラム的な観点からの見方など、あそこにはまるで含まれていませんでした。
唯一触れたのが、EUに入るために(イスラム教国)トルコが死刑制度を廃止したって例くらいですかね。それだって明らかに、欧米諸国の側の視点に立った例でしょう。
そうした視点の偏りは、街頭インタビューの取り扱いにも現れていました。あの「街頭インタビュー」って形式はニュース、バラエティ問わず広く見られるものですが、あれほとんど意味ないとボクは思っています。
全体の母数も、その内の何パーセントがこういう意見だったということも明らかにしない。あれだったら、いくらでも自分の都合のいいように編集できます。自分の思い通りの意見を述べた人のインタビューだけ使えば良いわけですから。
ちゃんとした論文=誠実な論文だったら絶対に使わない方法です。あんなのはただ自分が言いたいことを言うがための印象操作に過ぎない…とボクは思います。
追記:これだけだとフェアじゃない気がするので、一応書いておきますが、ボク自身は「国際協調主義の保守主義者」です。それでたぶん、ボクの立場はおおよそ言い得ているかなと。