「あん誰」徒然 | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)


 「AKB48のあんた、誰?」…特に金曜日は楽しい。ボクにとっては現行の48系番組でいちばん楽しいと言えてしまうくらいだ。

 この楽しさって何だろう。

 今の48は、メンバーの役割が細分化してきている。たとえば、バラエティ班やら何やらというのがそれに当たるだろう。また、「てんとうむChu」vs「いもむChu」の抗争に代表されるように、推されvs干されという構図も(物語として)先鋭化してきている。

 ボクはそれを否定しない。そうした「キャラ付け」はキャラクターを際立たせるためには重要だし、数百人という規模のなかでは、必然的に「この子は~担当」のように細分化していかざるを得ないだろう。

 それはまた、バラエティ番組が要請するところでもある。そういう場所では、キャラが立っていた方が使いやすいからね(『エビショー』での小石公美子の弾けぶりは、そうしたことの重要性を感じさせた)。

 だけどもそれは、必ずしもアイドルという文法と一致するものではない…という気もする。典型的なドルヲタである南キャンの山ちゃんが、「お笑い担当というアイドルが嫌い」と言っていることを思い起こしても良い。
(もっとも、ドルヲタとはかけ離れた有吉さんが「バラエティ分かってます」という空気を出す子を毛嫌いするように、笑いが本職である彼らがそれに拒否感を示すのは、ある意味では当然のことなのかも知れない)

 それはともかく…ある子が言うことはみな「かわいい」といわれ、またある子が言うことはみな「しらー…」。そういうお約束事はボクも嫌いじゃないし、バラエティ的に面白いとも思う。ただ、そればっかりだと、なにか物足りなく感じてしまう時があるのだ。

 そういう状況だからこそ、かえってみんなが同じことをするのが面白い、ってことがあるんじゃないだろうか。固着したものを引きはがすというかね。

 「公演をする」ってのや「握手をする」ってのもそうだし、(48が非アイドル化した状況では)「アイドルする」ってのも、いまやそのひとつなのかも知れない。ムチャぶり企画でみんな泣きながら頑張ってクリアするってのとは正反対だけれどもね。

 『あん誰』(金曜日)の楽しさ。それは、この番組が「アイドルすること」に最適化されているからなんじゃないだろうか(…って、「アイドル」ってことばかり言うのもどうかとは思っているのだけれど(^_^;)>)。

 NOTTVという媒体での配信ということもあるだろうし、AKB48 CAFE & SHOPからの中継ということもあるだろう。それに、司会のトップリードさんがボクら(ヲタ)目線であるということも大きい。そうして、この番組はまさにドルヲタのための番組になっている。

 『あん誰』では誰もが「アイドルする」ことを求められる。そういうのが大の苦手な田野ちゃんでさえね(むしろ田野ちゃんが「アイドルする」ってことが面白いんだ)。そして、それが全力で肯定される場所でもある。

 この、「全力の肯定」こそが、アイドルというものを取り巻く世界の本質なのかも知れない。そこでは推されも干されも関係ない。キャリアもキャラも関係ない(まあ、それがゼロとは言わないけれど)。余計なものは何ひとつない。

 端から見たら異様な世界かも知れない。いや、おそらくそうなんだろう。すべてをこれでやっていくことは、もちろんムリだろう。でも、こういう場所がひとつくらいあっても良いじゃないか…とも思えるのだ。

 思うに、48は(みんなキャラ=個性があってバラバラであることと、みんなで一緒のことをやるという)両輪だった。最近、そんなことを考える。