猿の惑星:新世紀(3.5) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『猿の惑星:新世紀』
DAWN OF THE PLANET OF THE APES
 
2014年アメリカ、131分
 
監督:マット・リーヴス
 
主演:アンディ・サーキス
 
概要
 名作SF『猿の惑星』の前日譚(たん)『猿の惑星:創世記(ジェネシス)』の続編。ウイルスによって滅亡状態に陥った人類と、遺伝子の進化を経て知能や言語を得た猿たちとの対峙(たいじ)が思わぬ事態を引き起こしていく。前作に引き続き、『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズのアンディ・サーキスがモーションキャプチャーを駆使し、猿のリーダーとなるシーザーを熱演。その脇を『ホワイトハウス・ダウン』などのジェイソン・クラークや『裏切りのサーカス』などのゲイリー・オールドマンが固める。人類が衰退した世界の衝撃的なビジュアルに言葉を失う。(シネマトゥデイより)
 
感想
 人と猿は共存できるのか。これはSF映画に良く見られるような異文化コミュニケーションというテーマを越えた、いわば文明論のようなテーマを持った作品です。
 
 クリストファー・ノーランの『ダーク・ナイト』やニール・ブロムカンプの『第9地区』、ブライアン・シンガーの『X-Men』もそうですが、娯楽映画で良くこういうテーマを出来るなと思います。邦画だとあまり記憶にない…あ、「ガンダム」がそうか…って、あれはアニメですけれど。
 
 それはともかく。そういう意味では、これは文明シミュレーション的な要素、あるいは「SF」と言ってもサイエンス・フィクションというよりは、スペキュレイティブ・フィクションの要素をより強く持った作品でしょう。
 
 ただ、『猿の惑星』はやはり「猿の惑星」なんですよね。どういうことかと言うと、あらかじめ出口が決まっている、ということです。あらかじめ出口が決まっている…人はそれを「運命」と呼びます。そういう意味では、これはまた、「運命」をテーマにした数々のギリシャ悲劇を思い起こさせるような、古典的な物語でもあるわけです。
 
 こうした作品を作る際に、もっとも気をつけなければならないのは、「運命」というものが、「制作者の意図」に見えてはならないということでしょう。途端に物語がチープなものに見えてしまうからです。「運命」というのは、あらかじめその世界のなかに仕込まれた設定によって、必然的に生じるようにしなければならないのです。
 
 まあ…こうやって書いて来たら分かると思いますが…この映画はその部分がどうも上手く行っていないところがあります。要はツッコミどころがあるということですが。
 
 (ネタバレ注意)たとえば、なんで、武器庫がそんな襲われやすいところにあるんだ…。しかも昼に殺されているのに、夜になってもまったく無警戒なのはおかしいじゃないか。そうした辺りに、物語をある方向に進めたい「制作者の意図」を感じてしまうわけです。
 
 個々のキャラクターの掘り下げも足りません。掘り下げが足りないから、その行動原理にもいまいち納得がいかない。納得がいかないから、ここでもキャラクターの行動に「制作者の意図」を感じ取ってしまうんですよね。
 
 それとですね…感情のコントロールも上手く行っていないと思います。こう…人類と猿とが色々やっている内に、見ている方はどっちサイドに肩入れするべきか分からなくなります。それはそれで良いんです。人類と猿を相対化する…というのは制作者の意図でしょうし。ただ、そうして相対化した視線というのは、一歩引いたものになります。客観的な視線と言うべきかな。
 
 なので、感情移入させようとする場面での効果が薄くなるんですよね。シーザーの物語というのは、前作から引き継いでいる物語なので、比較的に入り込みやすいのですが、先述したように一歩引いた視線を取らされているので、そこにどっぷりと浸かることができない。そのくせ、なんか感情移入させようとする雰囲気がある。その辺が混乱している気がします。
 
 あとはですね…物語が劇的に展開する最終局面。あれはもう、もっとずっと劇的にやっても良い筈です。ギリシャ悲劇で言ったら、あそこでアイロニー(鑑賞者は知っているけれど、登場人物/キャラクターは知らない)が解消される場面ですからね。一瞬ですべてが転回するくらい、もう徹底的に劇的にやっても良い筈です。
 
 悪い映画ではないですが、冒頭に挙げた作品群には色んな点で及びませんかね。
 
☆☆☆★(3.5)
 

 
 

 
P.S.
 そうそう…エンドクレジットでRotoscoping(ロトスコープ)と書いてあって、「そうか…『惡の華』をフル3DCGでやるとこうなるんだな」と(アニメのそれとVFXのそれは少し違うんですけれどね)。
 
 もちろん、この映画は実写と合成しているので、そう一概には言えないのですが、たとえば背景もキャラクターも『モンスターズ・ユニバーシティ』の技術で作った上にロトスコープをやったら、それはもう実写映画と区別できんのじゃないかと。
 
 こうやって書くと、いかにも「もうアニメーションと実写映画の間に境界はない」ということを強調しているように見えますが、ボクが興味があるのは逆のことで。つまり、技術的にはこうなっているのに、現に両者の間に区別があるように見えるのはどういうことなんだろう…ってことなんですよね。
 
 LOTRシリーズから『マレフィセント』から、境界が曖昧になっているような映画はいまや普通に見かけるわけですけれど、まだ区別は出来る気がする…いや、区別できなかったとしても、なにか違いはある気がする…それってなんだろう。そして、それこそがいまでも両者を切り分けているものじゃないか( ..)φ