今回はボクが見たかった…というより、ボクが撮りたかったゴジラの話です。2000年以来ずっと温めているのですが(笑)
金子監督の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』で、ボクがとても好きなシーンがあります。それは、ゴジラをチャリで追跡しているレポーターの新山千春さんが、ある峠に差し掛かり、遥か遠くの方で繰り広げられる戦火の明かりをハンディカムで撮影する場面です。
なぜ、この何気ない場面が重要なのか。それを理解するためには、まず、ゴジラ映画の基本的な作りを理解しなくてはなりません(エラそうでしょ-笑)
伝統的に、ゴジラ映画は2つの班に分かれて撮影されてきました。物語本編を撮影する班と、特撮を担当する班です。この2つは独立しているので、ゴジラ映画には2人の監督がいるとも言われます。
物語を担当する前者の場面では、登場人物の視点に立った主観的な画作りがなされます。それに対し、特撮を担当する後者の場面では、ゴジラがどうしましたよ…という客観的(説明的)な画作りがなされるのです。
そして、後者の場面=客観的/説明的な場面では、カメラはかなり遠くから映している感じになります。つまり、ゴジラが遠くにいるように見えるのです。それは、ジオラマ上で撮影する…という特性上、どうしてもそうならざるを得ないのですね。
一方、前者の場面でもゴジラの存在が示唆されることがあります。そうした場合、大抵は「画面の揺れ」などで表される(合成を用いてゴジラが直接に描かれる場合もある)ので、これはもうゴジラはかなり近くにいることになるわけです。
こうして、「主観的場面=ゴジラが近い+客観的場面=ゴジラが遠い」というゴジラ映画の特性が現れてきます。
もちろん、主観的場面でも、ゴジラが現れていない場面では「ゴジラが遠い」ことになるのですが、それはむしろ「ゴジラが居ない」のであって、ゴジラの存在はただ「情報」として現れているに過ぎません。ゴジラの存在が遠くに描かれているわけではないのです。
こうして、金子監督の「ゴジラ」における例の場面の特異性が分かってくると思います。あの場面では、主人公(新山千春さん)の主観的な場面なのに、ゴジラが遠くに居る。
金子監督の怪獣映画が素晴らしいのは、怪獣と主人公の距離を非常に意識していることです。たとえば、1.車に乗ってゴジラの居る場所に向かう→2.中継ヘリからの映像を車中で流す→3.その中継ヘリ自体が肉眼で見えてくる→4.ゴジラと遭遇…と、明らかに登場人物とゴジラとの距離が意識されているんですな。
ボクの撮りたいゴジラもそのようなものです…って、金子監督と同じじゃないか…いや、じつはそうじゃないんです…ってのが次回の話です。
つづきます。
その1、https://ameblo.jp/flowinvain/entry-12503105250.html
その3、https://ameblo.jp/flowinvain/entry-12503105300.html