滝田映画あれこれ2
滝田洋二郎と金子修介
滝田洋二郎と金子修介、同じ年(1955年生まれ)のこの2人は、そのキャリアにおいてもよく似ている。
ともに成人映画からキャリアをスタートさせ、80年代中盤に一般映画に転身。バブル期に大衆向け作品で頭角を現した。さらに、90年代前半には東南アジアを舞台としたコメディ作品を撮っているところまで同じだ。同じ時代を生きた2人。
しかし、その後のキャリアは違っていた。ひとりは小説を原作とした映画を数多く撮り、そして自らの想いを込めた企画でアカデミー賞を受賞。またひとりは、特撮映画へと転じ、その後はマンガを原作とした映画を数多く撮った。
じつはこの2人は、その当初から対照的だったのじゃないかと思う。ひとりは地方(富山)出身でまたひとりは東京出身、ひとりは高校卒業後に映画界に飛び込み、またひとりは大学の映研で映画を撮っていた。
なにより違うのは、人に対するまなざしだと思う。
ボクのもっとも好きなゴジラ映画『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(金子修介監督)に、ひとつだけ玉に瑕なんじゃないかと思えるシーンがある。それは、本栖湖で暴れる不良たちの前にモスラが現れる場面だ。
意図としては分かる。「護国聖獣」は乱倫な人間たちを許さないという一種の警鐘…の筈なんだけれど。
たとえば、『ゴジラ対ヘドラ』(坂野義光監督)でも似たような場面はあった。そして、『ゴジラ対ヘドラ』の場合は、最初から最後まで一貫してそのテーマでやっていたから、それはちゃんと主題として昇華されていた。
一方、金子版ゴジラのあの場面は唐突すぎて、違和感が拭えない。あの映画の中にあの場面がある必然性がまるで感じられないんだ。
金子監督は名作『ガメラ』でもフェイス・ペイントをした頭の悪そうなヴェルディ・サポを酷い目に合わせていたし、『デスノート』でもヤンキーみたいな連中を酷い目に合わせていた。だからボクは、ただ単にああした「頭の悪そうな若者たち」を金子監督が嫌いなだけなんじゃないかと疑っている。
そして、それが彼の作品を傷つけている。
どっちが優れているとか言うつもりはないんだけれど、滝田洋二郎と金子修介に違いがあるとすれば、その部分なんじゃないだろうか。
滝田作品では、「悪者」はいつでもどこか滑稽で憐れな存在だ。「死んでも構わない奴」なんてひとりも出てこない。それはたぶん、人間というものに対するまなざしの違いなんだ(そして、それはたぶん『おくりびと』へと通じている)。
なんか今回はむしろ金子監督の話みたいになっちゃったな(^_^;)>
次回につづく。