gift(2.5) | 想像上のLand's berry

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言葉はデコヒーレンス(記事は公開後の一日程度 逐次改訂しますm(__)m)

 
『gift』
 
2014年日本、91分
 
監督:宮岡太郎
 
主演:遠藤憲一/松井玲奈
 
概要
 テレビドラマ「湯けむりスナイパー」などの遠藤憲一とSKE48/乃木坂46の松井玲奈がダブル主演を務め、愛知県から東京を目指す感動的なロードムービー。妻子を捨て、友人もいない男が、愛されずに育ったキャバクラ嬢に100時間で100万円のアルバイトを持ち掛け、ある贈り物を届けるために旅をするさまを映し出す。監督は、本作がデビュー作品となる宮岡太郎。孤独な二人が旅を通して、少しずつ心を通わせる様子が印象深い。(シネマトゥデイより)
 
はじめに…
 物事を語るには色んなレベルがあると思う。たとえば友達からピアノを聞かされて「上手いよね」というレベルと、「グールド上手いよね」っていうレベルでは、まったく違うわけだ。
 
 ボクは…友達だからとか、そういうことで手加減できない。ボクはウソをつけないんだ。それに、レベルを分けて語るということは、自分の目を曇らせてしまうんじゃないかという気がする。「学生映画としては良く出来ている」。そんな評価に何の意味がある? 
 
 とは言え、映研の作った映画を、「商業映画とはレベルが違うよね」とわざわざ言うのも野暮だってことも分かるから、そうした類のお誘いはすべて断ってきた。
 
 何を言おうとしているか…それはもちろん、ボクはひょんさんの映画だからって、まるで手加減はできないという話。特にこれは商業映画なんだから、なおさらね。ボクが映画を観に行くっていうのは、ボクが映画を評するってのは、つまりそういうことなんだ。
 
 …だから、ここから読み進める人は、覚悟して進んで欲しい(特に、SKEを愛する方なら…ね)。
 
感想
1.映画とは…
 「映画」って、いったい何だろう。劇場でかかっていたら、それは映画なんだろうか。それじゃあAKBのコンサート中継を劇場でやったら(実際にやるんだけれど)それも映画になるんだろうか。家のテレビで見たら、映画じゃなくなるんだろうか。
 
 「映画」って、いったい何だろう。テレビ用に作ったものでも、それが劇場でかかったら映画になるだろうか(実際、スピルバーグの『激突!』なんかはそうだった)。それでもテレビ用に作ったものは「テレビ映画」と呼ばれるわけだから、それはやっぱり「映画」とは別物なんだろうか。
 
 自主制作で撮ったものも「映画」だろうか。だったら、ボクがいまテキトーにカメラを回して撮ったら、それも映画だろうか。たしかに、それは「ムービー」ではあるかも知れない。「シネマ」であるかどうかは…定かではないけれど。
 
 そんなことを考えている内に、劇場の照明が落ちる。なんだか見慣れたようなメニュー画面。「BD-R」…そうか、これからボクらは、でっかいスクリーンで一緒にブルーレイを見るわけだ。
 
 そして、CMも何もなしで、「映画」は始まった。
 
2.誰がためのgift
 まず脚本はムチャクチャ。これで「感動しろ」「良い話だと思え」って方がムリがある。物語の鍵を握る設定も、本来ならば、とても慎重に扱うべき問題。それが、この映画では、まったくなんの躊躇なく踏み越えられてしまっている。そこには、まるで葛藤が感じられなかった。これは、あまりにも無防備で幼稚な脚本だとボクは思う。
 
 ひとつひとつの行動の動機もまるで弱い。物語を作るためだけに死ぬ人物。物語を作るためだけに出てくるご都合主義な人物(なんだその「発信機」ってのは)。「~のために」作られた人物が多すぎて、キャラクターがまるで活きていない。あの「弟」なんて、もうただ弟であるためだけの弟でしかなかったじゃない。
 
 そのうえ、「余計な要素」を付け加え過ぎているから、本来、この映画で描きたかった筈の、主役2人の心の交流を、ちゃんと丁寧に描き切れていない。
 
 オリジナリティなんてほとんどないような脚本で、それは仕方ないんだけれど、だったらディテールを詰めなければいけない筈なのに、ただただ色んな所からつまみ食いしたようになっているから、そのそれぞれの要素がお互いを潰しあってしまっている。
 
 色々な要素を入れ過ぎているから、(ロードムービーなのに)流れも切れてしまっている。あの回想シーンなんて全然いらなかった。そもそも、映像ですべてを説明しようとし過ぎなんだ(余計なシーンをすべて削ぎ落して40分くらいの映画にしたら、もっとずっとマシな「映画」になったとボクは思う)。
 
 監督の演出意図は不明瞭で、笑いを取りに行っているようなシーンも、オドロオドロしさを出そうとしているようなシーンも、まるで中途半端だった。不明瞭すぎて、ホントにそういう演出意図があったかどうかも分からない。
 
 「え…これは…笑いを取りにいったシーンなの? どうなの?」観客(ボク)の方が困ってしまう。
 
 たまに良い画は撮れているけれど、どこぞの深夜ドラマみたいな映像で、場面ごとのトーンも一致してないし、照明は辻褄があってないし、ヒキの画とアップの画も(ところどころ)繋がってない。
 
 ロードムービーなのに、ドライブシーンはトレーラーか何かで引っ張ってもらってる感じがありありで、まるで疾走感がない。そのうえ、愛知から東京へ向かう話の筈なのに、レンタカーで借りた車はなぜだか「横浜」ナンバー。
(追記:序盤のシーンで富士吉田市の看板を見つけた。ってことは、富士吉田→石和…東京とは逆に進んでいるけれど最初からずっと山梨の映画だったのね(^_^;) 「愛知県発」って話に惑わされていたな…ロードムービーは位置関係が大事だと思うんだけど)
 
 あのさ…学生映画作ってんじゃないんだから。
 
 神社の神職も、元下宿先の夫婦も、定食屋の店員も、そこで暮らしている感じがまるでしない。みんな、役者かモデルって感じが丸出しだ。そもそも、エンケンさんの年はいくつの設定なんだ…。どう見ても高校生の孫が居る年には見えんかったぞ(エンケンさん自体の演技はさすがだったけれどね。彼が居なかったら、この映画自体が成立していなかった)。
 
 この映画には土の香りがしない。地に足がついていない。技術が伴っていない。頭でこねくり回して、それで満足してしまっている印象がある。説得力のある物語をどうやって作るのか、説得力のある映像をどうやって作るのか、それが分かっていない。
 
 予算とか若さとか、そんなことは言い訳にならない。スピルバーグは最初からスピルバーグだったよ。さっき触れた『激突!』なんて、彼が25才の時に撮ったテレビ映画だけれど、遥かに「映画」だった。それは彼が映画ってものの作り方を(あの時からすでに)よく理解していたからだ。
 
 スピルバーグと比べられても…と思うかも知れない。だけど、劇場でかかるということは、そうした監督の作品と同じ土俵で勝負しなければならない…ということなんだ。
 
 たとえば今だったら、『マレフィセント』や『オール・ユー・ニード・イズ・キル』を向こうに回して、それでもこちらを観に来たいという気持ちにさせなきゃ、そして、こちらを観に来て良かったという気持ちにさせなきゃならないんだ。
 
 もちろん、ミニシアター系の映画とブロックバスターを比較するのが間違いかも知れない。しかし、それにしたって同じことだ。ミニシアター系の映画は、ブロックバスターを向こうにして、それでもなお、こちらを観に来たいと思わせる「何か」、こちらを観に来て良かったと思わせる「何か」がなければいけないんだ。
 
3.「松井玲奈」
 じゃあ、その「何か」はあるのか。それは、ボクにとっては、なんと言っても松井玲奈の存在に他ならない。要するに、ボクがなぜこの映画を観に行ったのかって話なんだ。わざわざ小田原くんだりまで。しかも最寄り駅から片道徒歩30分もかけてね。
 
(この先、しばらく自分中心の話になるのは、話の展開上やむを得ずなのであしからず…)
 
 それって結構すごいことなんだ…とボクは思う。家から徒歩5分にシネコンがあって、しかも(まだ見ていない)『マレフィセント』とか普通にやっているわけだから、別にそちらでも良かったわけ。でも、ボクはそちらを選ばなかった。
 
 それはファンなら当たり前じゃないか…って思うかも知れない。でも、ファンがいるってことが既にすごいことだと思うし、ボクはファンと言っても、そもそも握手会も劇場もコンサートも行かない人なわけだからね←アイドルに会いたくないからっていう…
 
 それはともかく…自分の存在でお客さんを呼べるってのは、それはそれで、なかなかにすごいことなんだ…とボクは思う。
 
 (ボクがなぜ、この映画を観に行ったかと言えば、それは松井玲奈の存在に他ならないし)正直、観れたもんじゃなかったこの映画の感想も「玲奈、可愛かった」それに尽きる。
 
 それって、ただアイドルの見方を映画に転じているだけのように思えるかも知れない。そういう見方は、ホントは玲奈がイヤがるだろうな…ってことも分かる。でも、ボクは、「可愛い」と思えることって、とても大事なことだと思えるんだ。
 
 どんなに面白い映画であっても、ヒロインにまったく魅力がなければ観れたもんじゃない。魅力的なヒロイン=女優がいて、それでお客さんが呼べるなら、それはそれで映画というものの一部だとボクは思う。
 
 玲奈はまず何より画になる。立っていても座っていても、悲しんでいても微笑んでいても画になる(…セーラー服姿は…まあ、ともかく(^_^;))。これは非常に大きいとボクは思う。これ以上の武器はないってくらい。演技なんて慣れれば、それなりに見えてくるもんだとも思うしね。
 
 だけど、もちろん、「映画はダメだったけれど玲奈は良かった」なんて言うつもりもない。ヒロインを演じるってことは、作品の出来に対して、それなりの責任を負うということ。その点、玲奈の演技はまだ未熟で、やはり気になるところはあったんだ。
 
 ひとつは、どこかプログラムされたロボットのように見えてしまうところがあった、ということ。「ロボット」って言うと「動きがぎこちない」って意味で捉えられそうだけれど、ここで言いたいのは、むしろ「プログラムされた」という方。
 
 つまり、Aの演技(動作)→Bの演技→Cの演技って、こう順番にこなしていっているように見えてしまうんだ。A、B、Cとそれぞれの演技が分断されて見えてしまう。それがどこか、「プログラムされたロボット」のように感じてしまった…ということ。
 
 あれはなんだろう…まだ頭で考え過ぎなのかな。そのためか、演技そのものも記号的に見えてしまった。つまり、ひとつひとつの演技が言葉で説明できそうな演技だということ。説明的な演技と言っても良いのかな。「これはこういう演技」「これはこういう演技」、なにかそういう感じを受けた。
 
 それを解消するためには、やっぱり時間をかけていくしかないんだろうとボクは思う。自然に動作が流れるようにするためには、何度も何度も反復して身体に覚えさせる必要があるようにね。それは演技の訓練もそうだし、リハーサルの時間もそう(『12人の優しい日本人』なんて、映画なのに撮影前のリハーサル期間を2ヶ月もとったという話がある)。
[訂正:1か月でした<(__)>]
 
 もうひとつ気になったのは、「別人」になろうとし過ぎているところ。たしかに、松井玲奈と山根沙織は別人なんだから、それはある意味では仕方がないのかも知れない。
 
 でも、別人になろうとし過ぎてしまうと、「松井玲奈」という存在と、「山根沙織」という演技とが切り離されてしまう。それはつまり、表面的な演技に見えてしまうということ。セリフに魂が入っているように聞こえないんだ。それは、とくに叫ぶ場面において顕著だった。
 
 松井玲奈という実際の人格と、山根沙織という架空の人格とを「すり合わせて」、それではじめて、松井玲奈=山根沙織というひとつのキャラクターが出来上がるんだとボクは思う。それをこちら側に引きつけるか、それとも向こう側に没入してしまうか、どの辺りで折り合いをつけるのか、という問題はあるにしてもね。
 
 (まあ演劇の話だから100%一致するわけではないだろうけれど)劇作家で演出家でもある平田オリザさんが、オーディションをする上で重視するポイントを次のように語っていた。
 
「ひとつはコンテクストを自在に広げられる俳優。もうひとつは私に近いコンテクストを持っている俳優。そして最後に、非常に不思議なコンテクストを持った俳優」
平田オリザ『演劇入門』
 
 この「コンテクスト」という言葉は、平田さん独特の使い方なんだけれど、ボクの理解するところでは、いわば、その人が持っている「背景」とでも言って良いもの。人はみなそれぞれに「コンテクスト=背景」を持って生きている。
 
 そして、その人の使う言葉も、その人の持つコンテクストに従って形成される。だから、あるコンテクストを持つ人が書いたセリフは、それとはまったく異種のコンテクストを持つ人にとっては、自然に言うことが非常に難しかったりする。
 
 これは考えてみれば当たり前の話で、ボクらは普段、たとえば江戸時代のような話し方をしているわけじゃない。だから、当時の劇作家が書いたセリフは、現代に普通に暮らしているボクたちにとっては、自然に言うことが極めて難しい(それはもちろん、それらが様式化されている…という理由もあるんだけれど)。
 
 これはなにも、そんな極端な例じゃなくてもそう。平田さんの例では、電子レンジをある家庭では「レンジ」と呼び、また別の家庭では「チン」と呼ぶという例が出ていた。これはそれぞれの家庭が持つコンテクストが違うという例なわけだ。
 
 他にも、たとえば…方言なんかもそうだろうし、政治家の言葉と中学生の言葉も違うだろう(あの野次やあの会見は…まあ、中学生みたいだったわけだけれど…(;一_一)←話を混ぜかえす人)。
 
 そしてもちろん、平田さん自身もコンテクストを持っていて、その中でセリフを書いている。そう考えていくと、さっきの「平田さんがオーディションで重視するポイント」というのも分かってくる。あれはつまり、「平田さんの書いたセリフを自然に言えるのはどういう人か」という問いに似ているんだ。
 
 たとえば、「コンテクストを自在に広げられる人」というのは、自分のもつコンテクストを広げられる人、たとえば学生だったとしても、政治家の領域にまでコンテクストを広げられる人…ということになる。
 
 こういう人ならば、もちろん、平田さんが書いたセリフも自然に言えるわけだ。ボクが思うに、これは、たゆまぬ訓練によって(ボクの言葉で言うならば)「ニュートラルな身体」を手に入れた人=俳優のなせる技だと思う*。
 
 そして、2番目の「平田さんに近いコンテクストを持っている俳優」というのは、これもそのままの意味で、そういう俳優ならば、もちろん平田さんの書いたセリフを自然に言えるわけだ。そもそも、それが自身の自然な話し方に近いわけだからね。
 
 この例はつまり、「脚本家と俳優との相性」という問題を示唆している。どんな脚本家にも自分と相性の良い俳優とそうでない俳優がいる筈なんだ。
 
 そして、最後の例というのが少し特殊な例で、これは、どんな役をやらせても自分自身になってしまうような強烈な個性を持っている俳優。
 
 つまり、ここで言われているのは、どれも、俳優と脚本(役)を、いかにしてすり合わせていくか、という問題なわけだ。最初の人は、役に自分を合わせてしまえる人。2番目の人は、そもそも役と自分が近い人。最後の人は、自分の方に役を引きつけてしまえる人。いずれにしても変わらないのは、いかにして役と自分とをすり合わせるかということだ。
 
 平田さんは言う。「自分のコンテクストを完全に離れて、他者になりきることなど不可能である。俳優は、少しずつ自分のコンテクストを押し広げ、その役柄に近付いていくのだ」「演ずるということは、つまるところ、自分のコンテクストと、演ずべき対象のコンテクストを擦り合わせることなのだ」と。
 
(もちろん、平田さんは、どうしても俳優が自然に言えない場合もあるから、そういう場合は、もうセリフそのものを変えてしまうとも言っているのだけれどね)。
 
 少し話が脱線したね。
 
 この映画での玲奈の役作りは、その「すり合わせ」の作業が少し足りなかったんじゃないかとボクは思う。今回の役は、普段の玲奈とは違う言葉(コンテクスト)を持った役だったわけだから、なおさらね。それにもちろん、まだ経験が浅いから、その分だけ時間が足りなかったってこともあるんだろう。
 
 別人であること。それは良い。でも、そこから2つの存在を、2つの人格を、2つの言葉…コンテクストを「すり合わせて」いかないと、ちゃんとしたひとつのキャラクターにはなり得ないんだとボクは思う。そうしてはじめて、役に魂が入るんだとボクは思う。
 
 どうも…ずいぶん熱くなり過ぎてしまったな…これくらいにしておこうか。
 
 でもね、ボクは玲奈は良い役者さんになると思っているよ。(未熟な分は慣れれば良いわけだし)美しいし、画になるし、風情があるし、良い表情をするし、カンが良いし、努力家だし、ちゃんと考えているしね。なにより、ボクが認めているんだから…って、うん…それは、なんの保証にもなっとらんのだけれど(^_^;)
 
4.
 ああ…映画の評価を忘れていた。評価は1.5。良いとか悪い以前に未熟すぎる。洋画の方で、以前、『ドゥームズデイ・プロフェシー』が1.5という評価だったけれど、それと同じような評価だってこと。ただ、れなひょんポイントで+1。だから2.5。
 
 え? 手加減なんてしてないぞ(*^_^*)←これまでもそういうポイントを入れてきたっていう(笑)
 
 まあ、だけど、ボクはいま、松井玲奈以上に応援したいと思っている女優なんて世界にひとりもいないよ。ホントは、ただそれだけが言いたかったんだ。
 
☆☆★2.5