先日、ヨーロッパでも指折りのコレオグラファー兼ダンサーの方が、ウチのゼミにやってきた。普段は10人くらいの小さなゼミだけど、さすがに今回はオーディエンス(+彼のお供の人びと)で教室が満杯になった。
講演冒頭、ボクが気になっていた、映像とパフォーマンスの関係を物語る映像が流される。それは、映像作家によるfine art(美術)と、ダンサーによるperformance art(舞台芸術)が「コラボレーション」した作品だった。
しなやかな身体、その身体に陰影を作り出す上からのライティング、ダンスのリズムに呼吸を合わせるようになされたモンタージュ(編集)。場面が飛ぶことによって軽やかな浮遊感が生じている。映像とダンスが響きあう。it's so beautiful...
2本目に流されたビデオは、パフォーマンスを普通に撮ったもの。クローズアップなどはあるけれど、モンタージュ(編集)はない。だから、非常に軽やかな印象があった1本目とは違い、ある意味では退屈なんだけど、それでも見入ってしまう。
それってなんだろう…
たとえば、ただ「座る」というだけの動きに見入ってしまう。それはおそらく、彼がその動きに全神経を集中しているから…ではないだろうか。
ボクらは普段、身体を動かすときに、無意識にそれを行っている。歩く時にも、歯を磨く時にも、大して意識せずともそれが出来る。だけど、すべての意識をひとつひとつの動きに集中してみたらどうなるだろう。途端にそれら全ては難しくなってしまうだろう。呼吸でさえも。
彼は、それを研ぎ澄まされた集中力によってコントロールする。そうして緊迫感が生まれる(それはまるで、名工によって作られた茶碗がもつ緊迫感のようだ)。
そのことによって、ボクは彼の動きの「意味」を探ろうとする。ひとつひとつの動きが意識的になされているから、ボクはその動きの意味を読み取ろうとするのだ。その動きがまるでメッセージのように見えるのだ。目のまえに必死で何かを言わんとしている人がいれば、誰もがそれに何とか耳を傾けようとするだろう。まるでそのように、ボクは彼の動きに見入ってしまう。
それは、心臓の鼓動と同期されたビートに乗って踊り狂い、忘我の境地に立たんとする「祭りの踊り」(ディオニュソス的なもの…今ではそれは「トランス」に典型的に表れる)とは正反対の方向性をもつダンスだ。
かたや意識的であり、意識を集中させるものであり、自己の身体を深く内省するものであり、また言語であり理性であるダンス。かたや無意識であり、麻薬的であり、自らを忘れ去り全体と融け合う、精神交感的なダンス。
さて、ボクらのダンスは、いったいどちらだろう…。
P.S.
あ…これはボクが映像を見ながら勝手に考えていたことなので、講演内容とは直接には関係ありません(^_^;)