倉石和幸
私がテレビの業界で仕事をしていた時の話ですが、ある演出家に「舞台は役者がいれば成立する。但し、役者の演技を照明で助け、更に音響で助けることによって役者は100%以上の演技が出来る」と話をされました。今後は照明、音響と同様に映像もその役割の一つになると思います。役者がいて芝居の一部を映像が補う、また、最近は装置、照明の一部を映像が補う様になりました。
「劇場舞台における映像活用の現状」『さいたま舞台技術フォーラム 2013 舞台における映像の可能性』(pdf)
八角聡仁
(注:演劇のテレビ放映で)ショットが次々と切り替わるなかで、バスケットからコップを取り出す手許をクローズアップしたり、水を飲む少女の顔にカメラがズームインしていくのを見ると、あまりの品のなさに居たたまれない思いがする。(…)しかし、それはそれでいいのだと考えたい。テレビは所詮、ゆるやかさの官能とは無縁のメディアなのであり、そこで伝えられるのは「情報」にすぎない。(…)情報は定義上「有用」でなければならず、必要なのは「速さ」であり「分かりやすさ」(…)情報は情報として有効に用いられるべきであり、それを否定するつもりはない。ただ単に、作品に適した映像のあり方と、そうでない映像があり、われわれはいずれも〈記録〉としてそれを活用することはできる。
「方法としての記録―DVD『太田省吾の世界』をめぐって、再び」『舞台芸術17』2013、191-192頁。
鈴木邦彦
まずは視点・視野の自由度に関する図が一つ描けるであろう。先にも確認したことだが、映像劇では、Bosworthの平原の俯瞰からRichardのほんのちょっとした目の動きを追うことまで、視点は完全に自由自在。ただ、それは「自分が見たいことを自由に見ることができるのではなく、映画の製作者が見せたいことにかぎり、どんな細部でも見ることができるといふにすぎない」のであり、作り手側の自由自在さではあっても、鑑賞者の自由自在さではない。鑑賞者は作り手の意図に従って画面を眺めさせられるのみなのだ。クロースアップされた時など、画枠を外れたものを見たくても見ること能わぬ不自由さがある。逆に舞台劇は、作り手側からすると、視点を次から次へ瞬時に動かしていくなどという芸当はとても出来ないわけだが、鑑賞者の側は、少なくとも舞台の上に載っているものであれば、主役を眺めるもよし脇役を眺めるもよしセットを眺めるもよし、好きなように自ら視点を選んで作品を鑑賞する自由がある。つまり、視点・視野の決定ということに限って言えば、映像劇では、作り手の自由度が高く、鑑賞者の自由度が低い。他方、舞台劇では、作り手の自由度は低く、鑑賞者の自由度が高い。
「演劇における視点―舞台劇と映像劇、再考―」『商学論究46』1999、52-53頁。
水口薫
舞台芸術のドキュメンタリー撮影では、舞台全体を固定して記録するのか、クローズアップによって登場人物の表情を撮影するのかが問題になってくる。本来、伝統的な舞台芸術は、舞台上と観客席の演じる側と見る側に分けられた形態での表現を行っている。作者や演出家は、そのように演出し、役者、演技者も演じている。舞台では、幕間までは登場人物が多数残っている場合がある。順に、演じたり、歌ったりする間、何もしないで待っている演技者やメインの演技者が演じている時に、離れた所で、意味のある動き、演技をしている演技者もいる。位置関係は、舞台を構成する視覚的構成、鑑賞者に与える印象なども考えられている場合もある。このような場合、クローズアップを多用した映像記録では、視聴者には伝わらないことになる。真の舞台芸術を鑑賞したことにならない。
「芸術的素材についての映像分析手法の基礎」『アート・リサーチ』2003、206頁。
最近の舞台映像では、カメラが舞台の内側から役者を撮影、観客からは見えない映像を見せるものも出て来ている。蜷川幸雄演出の舞台「近松心中物語それは恋」の映像は、観客席にも設置、数台のカメラによるカット割り、画面切替えは映画的な映像を作っている。
同上、207頁。
落語のような一人芸では、高座にあがると落語家は座ったままで移動をしない。カメラは固定のままで良いようであるが、見る側の視聴者は会場にいる観客と違って、話はおもしろいのだが、変化のない映像が逆に退屈な気持ちにする場合がある。と言って、頻繁なズームやクローズアップは、落ち着きのない映像を作ることになる。殆ど身ぶりもなく、大きな動きのない師匠の米朝と弟子の枝雀では芸風が違っている。聞かせる米朝と大袈裟な身ぶり、表情の枝雀では、クローズアップの回数も違ってくる。
同上、209頁。
永田彰三
映画的表現は演出の主観が多大である。ピーター・ブルックは、『ロミオとジュリエット』の別離の場面でのシェイクスピアの比喩表現や出来事をもたらす台詞を取り除いて、それを俳優に課する実験を試みている。劇映画と演劇の「劇的なるもの」の表現を探る時、言葉によって状況と出来事を現わし、俳優の肉体によって視聴覚化される演劇と劇映画の相違を一層確かめることが出来る。ブルックは、抽出された台詞によって筋を展開することが映画の一筋としてなら、クローズアップやイメージの音ぬきのショットを用いて処理できると述ベている。つまり、映画的表現においては、機械技術や技法やフィルム編集における演出の主観によって、感情の叙事詩を構成し表出する。
「演劇と劇映画―その劇的なるもの」『季刊映像9』1978、31-32頁。
ネストール・アルメンドロス
クロース・アップが、映画芸術を演劇から分ける固有の要素の一つをなすという考え方は、たいそう広く受け入れられている。しかし、人々は演劇にもクロース・アップがあったことを忘れている。かつての劇場の観客は、オペラ・グラスを使って、好きな時に自分なりのクロース・アップを「作り出して」いたのだ。映画で違うのは、必要に応じて監督がクロース・アップを決めるということだ。私はクロース・アップがたいへん好きだが、おそらくそれは私が近視だからだろう。
『キャメラを持った男』p.24
ジョルジョ・テスティ
──ライヴ・ヴィデオをつくるときに何を伝えたいと思っていますか? アーティストに合わせるのですか、それとも、あなたのヴィジョンを込めていますか? どれくらいがあらかじめ計画されていたことで、どれくらいがライブの間に偶然起きたことなのですか?
演出がミュージシャンのパフォーマンスに映画的・ショー的要素を与えることで、何かを付け加えることができれば嬉しいです。ライヴ撮影は、観ている人がバンドと一緒にそこにいて、彼らの皮膚の下に入っていくように感じさせなければなりません。
ローマにいるころから、わたしはずっとコンサートが大好きでした。わたしの尊敬するミュージシャンたちを、スーパーヒーローのように思いながら成長しました。そして、彼らと一緒に仕事をするようになってからは、わたしが1ファンとして彼らを見るのと同じような仕方で、彼らがフィルムに収められるようにしたいと思っています。わたしはバンドを正真正銘の台座の上に乗せて、舞台上の彼らの存在を伝説化したいと思っています。