前回までの記事は、例の「2本柱」の存在が表情を重視するチーム4の表現に繋がっている(んじゃないか)という話でした←略しすぎ(笑)
つまり、「2本柱」があることで、カメラを最前列に置くことができ、したがってアップが多用されるため、メンバーもアップを意識するようになる(んじゃないか)。さらにステージとカメラの距離が近いということは、撮影できる角度が広い=表現の幅が広いということなので、カメラもまた表現的になった(んじゃないか)という話でした。
実際、チーム4の「手つな」を見返してみると、カメラワークも多彩ですし、時には意図的にピンボケさせたようなショットも撮っていて↓、舞台上のパフォーマンスをありのままに忠実に映すというよりは、画としてどう成立させるか(映像それ自体の表現)を考えているように見えることがあります。

さて、カメラが表現的であるということは、カメラワークによる演出もそこに加わっていると考えることが出来るでしょう。ここで非常に単純な足し算をします(単純なだけに、これはおそらく正しくありません)。
そうすると、AKB劇場の中継では「舞台上のパフォーマンス」+「照明の演出」+「カメラの演出」と3つの要素が入ってきていることが分かります。
一方、カメラがより透明なSKE劇場の中継は「舞台上のパフォーマンス」+「照明の演出」という構成が主になっていることになります(もちろん、カメラの演出がゼロということはあり得ないのですが、カメラがより透明だということは、カメラの演出がよりゼロに近いということを意味します)。
これは何度も言うように、どちらが良いとかいう話ではありません。あるいは、素材の良さをありのままに出そうとする和食(SKE)と、とにかく調味料を使って味付けしようとする中華料理(AKB)の違いに似ていると言っても良いでしょう。そういう意味では、これは味付け=演出の「濃さ」の問題です。
この濃さの違いをボクは「密度」(あるいは濃度と言っても良いですが)と呼びます。これはつまり、ひとつのショットにどれだけの要素が入っているかという指標です。カメラの演出が加わると、それだけ密度は濃くなります。
たとえば、舞台上で演技が止まっている場面でも、カメラが段々と演者に寄っていけば、鑑賞者が演者の心理に引き寄せられる効果が生じますし、単純に演技の間/隙間を埋める効果もあります。
AKB劇場の映像は、単純に映像としてカッコイイというのもありますし、パフォーマンス表現とカメラの表現がぶつかり合って何か新しいものを生み出しています。それぞれが主張し合って、ボクは映像の波に溺れそうになりますが、これはこれでなかなか良いものです。
しかしそれはまた同時に、純粋に舞台上のパフォーマンス(素材)を味わうためには、邪魔なものにもなりかねません。
非常に極端なことを言えば、たとえば篠山紀信さんの写真が、被写体(素材)が誰であっても篠山紀信さんの写真になってしまうのと同じ理屈です。それは要するに、調味料の味が強すぎて、みな同じ味になってしまうからです(もちろん、AKB劇場のカメラはさすがにそこまで味が強いものではないのですが)。
(追記:さらにアップが多いということは、全体の統一された動きを把握しづらいという問題も生じます。したがって個人プレーに走りやすくなるかも知れない)
さて、ここまで書いてきましたが、ここでひとつの疑問が生じる筈です(というより生じてください-笑)。それは、「チームE公演初日の(とりわけ『Inoccence』から3曲の)密度が少し薄かった」というボクの言葉は、単に両劇場の構造的違いを指摘したものに過ぎなかったのか、という疑問です。
ある意味において、その疑問は間違っていません。ボクの言葉はじつのところ、両劇場中継の構造的違いに由来するものでした。ただ、それだけではない…というのが次回の話になります。
次回につづきます