「シンプルな解決策」
「アイドル」というのは、「これをやっちゃいけません」という一連の倫理規範に支えられた概念です。良いとか悪いとかじゃない、それが出来なければアイドルじゃない。ただそれだけのことです。
たとえば、サッカーを例に考えてみましょう。サッカーは「手を使ってはいけない」スポーツです。これは良いとか悪いとかじゃない、もう、そういうもんなんです。手を使いたかったらラグビーに行ってください、そういうことです。
いま、ボクが聞きたいことは「48はラグビーになったのですか?」ということです。「これはサッカーである」と言っている筈なのに、どうやら手を使っている人間がいる。しかも、それでペナルティを受けているかどうか分からない。
サッカー好きの人は、「実は今季からJリーグがこっそりラグビー(手を使うのがOK)になってました」と想像してみてください。それってちょっとビックリしてしまうでしょう? あまりにもバカげた話だと思うかも知れません。でも、これが実際に起きているのが現在の48です。
もちろん、「ラグビーでも良いじゃないか」という人も居るでしょう。しかし、それは2つの点から間違っています。第一に、その言葉はサッカーを観たい人には意味がありません(ボクはサッカーが観たいわけなので、その言葉はボクにとっては無意味です)。もうひとつ、戦略という観点からも現在の状況は望ましいものではありません。
サッカーとラグビーは共に多大な成功を収め、隆盛を極めているように見えます。しかしそれは、両者が分裂して*、お互いのアイデンティティを確保したからです。手を使うのが良い人はラグビーに、使わないのが良い人はサッカーに行けばいいことになった。こうして、手を使うことが良いことなのかどうかという不毛な議論から解放されたのです。
*(もともと両者は同じスポーツでした。それぞれの地域がバラバラなルールでやっていたのですが、1863年に統一ルールが定められ、近代サッカーが成立したのです。この統一ルールに賛同できないグループが分派してラグビーを作りました)
ここで分裂できなかったらどうなっていたでしょうか。
実際にこれが起こったのが「芸術」でした。ある時から「芸術」は何でもアリになってしまった。何でもアリになってしまったことで、「芸術」という言葉は、その言葉の中身を失ってしまいました。なにが「芸術」で、なにが「芸術」でないか、分からなくなってしまった。その言葉はただのラベルに過ぎなくなってしまったのです。
こうして、「芸術」は終焉を迎えました。「今でも展覧会には人が大挙して押し寄せるじゃないか」と思われるかも知れません。しかしそれは、「芸術」という言葉が意味を持っていた時代の作品、オールドマスターの作品でしょう。現代アートの展覧会なんて、(もちろん熱心な支持者はいますが)大抵の場合はガランガランです。
ボクらはもう分裂するしかないんですよ。「アイドル」というアイデンティティを守るためにね。まあ、実際には過去にいちど分裂しているんですが、あれはホントの意味の分裂ではなかったですし、しかも、「手を使っても良い」方のグループが潰れたんですがね…。本体がこうなってしまった以上、もうホントに分裂するしかないですよ。
だから、ボクがいま聞きたいのは、次のたったひとつのことだけなんです。
「48はラグビーになったのですか?」
ラグビーになったのだったら、ボクらサッカーをやりたい人(あるいはサッカーを観たい人)が出て行くだけですし、逆に、いまでもサッカーなのだったら、ラグビーをやりたい人(あるいはラグビーを観たい人)が出て行けば良いだけのことです。とてもシンプルでしょう?